2014年11月1日土曜日

【第366回】『超訳論語』(安冨歩、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2013年)

 『ドラッカーと論語』(『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年))を読んで以来、『論語』を再読し、ドラッカーの『Management』を読み始めた。著者の書籍にも興味を持ったため、いくつか読もうと思い立ち、この本がその最初の一冊である。

 『論語』の原文をもとにしながらも、著者が意訳をおそれずに解釈したのが本書である。冒頭の部分では、『ドラッカーと論語』を読んでいれば、その復習に最適なまとめがなされていることに気づくだろう。

 人間にはなにかを学びたい、という好奇心がある。その好奇心によって外部から知識を取り入れても、その段階では自分自身のものになっておらず、そればかりか、取り入れたものに自分自身を譲り渡す格好になっており、「振り回され」ている。
 それが修練を重ねていると、あるときふと、しっかりと自分のものになる瞬間が訪れる。このとき、学ぶ者は学んだことに振り回されるのをやめて、主体性を回復する。これを「習う」という。
 そうなったとき、人は、大きな喜びを感じる。人間は、そういう生き物である。この「学習」のよろこびに孔子は、人間の尊厳と人間社会の秩序との根源を見た、と私は考えている。(kindle ver. No. 59)

 知識を収集し、プレゼンテーションと称してそれを披瀝する。時にそれがカッコイイものとして賞讃を得られたとしても、聴衆のどれほどがその意味内容を理解し、自身の有り様の変容に向けて咀嚼し、工夫を凝らすだろうか。また、プレゼンター自身にとっても、プレゼンテーションのためのプレゼンテーションとなり、耳障りの良い言葉を使っているだけになっていないだろうか。こうした「振り回され」た受動的な学びに陥らず、主体的な学びこそが、私たちに求められる学びであると著者はしている。さらに、そうした学びの中にこそ喜びが生まれ、喜びの連鎖が人間社会の秩序形成に資するのである。

 このような「学習」の作動している状態が「仁」であり、それができる人を「君子」と呼ぶ。君子は、自分の直面する困難を学ぶ機会と受けとめて挑戦し、何か過ちを犯せば、すぐに反省して改める。このような学習を通じて変化し、成長するのが、君子のあり方である。(kindle ver. No. 66)

 こうした主体的な学びのモードに入っている状態が仁であり、その主体者が君子である、と端的に著者は要約する。

 対話者の双方が学習回路を開いていると、双方は共に学び合いながら成長していく。このようにして達成される調和を「和」という。「和」であることによってはじめて、本当の意味でのコミュニケーションは成立する。そのとき、両者のやりとりのありさまを、「礼」にかなっている、と言う。(kindle ver. No. 85)

 双方が仁の状態を維持し続ける君子である場合、主体的な学びは個に閉ざされず、対話によってオープンな知の生成プロセスが発生する。こうした学習回路が開いた状態によて、人々の間に生じるものが「和」であり、「和」の状態におけるやりとりが「礼」にかなった状態である。

 ここまでの基礎的な論語の前提理解を踏まえた上で、著者は個別的な解釈を試みる。以下からは、私にとって印象的であった部分を引用しながら、所感を述べていくこととしたい。本書を読む直前に金谷治さん訳注の『論語』を再読したのだが、『論語』では見落としていた部分に強い印象を抱いた箇所がいくつかあった。原典を踏まえた上で解説本を読むというのは、意外な発見や気づきがあり、趣き深いものだ。

 〇〇一 学ぶことは危険な行為だ
 何かを学ぶことは、危険な行為だ。
 なぜならそれは、自分の感覚を売り渡すことになるから。
 しかし、学んだことを自分のものにするために努力を重ねていれば、あるとき、ふと本当の意味での理解が起きて、自分自身のものになる。
 学んだことを自分自身のものとして、感覚を取り戻す。
 それが「習う」ということだ。それはまさに悦びではないか。
 (学而第一1-1)(kindle ver. No. 300)

 学びとは、「自分の感覚を売り渡すこと」であり、それが故に「危険な行為」である。ここで私たちは、自分にとって有益な知識をつまみ食いしたり、与えられた作業命題に一対一対応するマニュアルを覚え込むことが学びではないことに思い至る。なぜなら、そうした行為は、安全地帯に自分を置き、過去の自分自身からの変容を促すものではないからである。学ぶということは、自分の感覚を投げ出した知識の前に自分自身を曝け出し、そこで得られたものを自身で工夫しながら体験して得られるものである。したがって、何か新しい知識を得ること(learning)は、必然的に既存の知識や自身のマインドセットを一旦捨て去ること(un-learning)を伴うと言えるだろう。

 〇四一 礼を学ぶことこそが礼
 「礼とは何かを探究することが、礼なのだが」
 (八佾第三15)(kindle ver. No. 455)

 ある滞在地で、出会う人々に対して礼について問い続ける孔子の様を見て、「孔子は礼を知らない」と陰口を言われたことを踏まえて漏らした孔子の一言である。先述した通り、オープンな状態での他者間のやり取りが礼であり、そうであるならば、その有り様は多様であり、一様な解答というものは存在しない。そうであるからこそ、礼とは常に探究するものであり、その一つひとつの答えの中に多様な可能性を有している存在なのである。「論語読みの論語知らず」という言葉があるが、自戒を込めて、礼に関する孔子の言葉を常に意識したいものだ。

 〇五七 君子は傍観者ではない
 君子が天下のことに対するにはどうするか。「これはいい」とか「あれはダメだ」とか、傍観者になってコメントするのではなく、意義のあることをやろうとする人々と共に進む。
 (里仁第四10)(kindle ver. No. 519)

 何かを問われた時に、瞬時にその是非を答え、理由をいくつか述べることがビジネスでは時に評価される。しかし、そうした態度は、回答者自身をその問題から離れた遠いところに配置しているからこそできることなのかもしれない。問われた問題に対して共に解決していこうとする態度であれば、是非をたやすく答えられないものだろう。

 〇六二 軽々しく言葉にするな
 古の人は思ったことを軽々しく言葉にしなかった。我が身のありさまがそれに追いつかないことを恥じたからだ。
 (里仁第四22)(kindle ver. No. 535)

 時に高い志を述べて自分を鼓舞するということもいいだろう。しかし、言葉の持つ意義や重要性を鑑みて、自分が発する言葉には留意したいものだ。軽々と言葉を扱っていると、他者からも軽々しく扱われることになりかねない。

 〇七〇 語りえないものについては語らない
 先生のお話は、誰でも聞くことができる。しかし先生は、天の道理や人間の本性といった「語りえぬ」ものについてお話なさることはなく、そんな話は、誰も聞くことができない。
 (公治長第五13)(kindle ver. No. 562)

 ウィトゲンシュタインを彷彿とさせる至言。

 〇八三 身体感覚と知性
 身体感覚が知性を圧倒していると、野人となる。
 知性が身体感覚を圧倒していると、官僚的になる。
 身体感覚と知性とが、ともに生き生きしていてこそ、はじめて君子といえるのだ。
 (雍也第六18)(kindle ver. No. 618) 

 学習回路を開いた状態を保つためには、身体感覚と知性とその双方を涵養することが重要なのだろう。したがって、何かを修得しようという近未来のことに目を向けるだけではなく、現時点における自分自身の多様な有り様についてセンスすることもまた、必要なのではないか。

 〇九四 富や地位を得ることのはかなさ
 簡素な食事をとって水を飲み、肘を枕に眠る。
 楽しみはそのなかにある。
 自分が為すべきだと思わないことをやって富や地位を得ることは、私には浮雲のようにはかないことに思える。
 (述而第七15)(kindle ver. No. 659)

 恥ずかしながら、私の印象としては『老子』ではないかと見誤るような箇所であった。『老子』に対して抱くイメージと『論語』に対して抱くイメージとは全く異なるものであるが、前提知識や固定観念で書にあたってはいけない。自戒の意味で。

 一一八 手放すべき四つのこと
 孔子は、意・必・固・我という四つのことを拒絶していた。
 意とは、事前にどうこうしてやろうという意図。
 必とは、必ずこうしたいというこだわり。
 固とは、思い込んでしまったことを変えられない頑固さ。
 我とは、「私が私が」という自己中心主義。
 (子罕第九4)(kindle ver. No. 760)

 どれも時に持ってしまうものであるが、私はとりわけ「意」と「必」とを持ちがちだ。全くなくすというのは難しいのかもしれないが、持ちすぎているときには自分自身で気づけるようにしたいものだ。

 一七五 君子と小人の方向の違い
 君子は、自分の考えを上に到達させる。
 小人は、自分の考えを下に押し付ける。
 (憲問第十四24)(kindle ver. No. 1014)

 組織で働いていれば、両者ともによく目にするものだろう。ここで気をつけたいのは、「周囲に小人が多い」という発言をする時には、自分自身も小人になっている可能性が高いということである。たとえば、マネジメントに携わるということに構えすぎると、意図せずして小人と堕してしまうのではないか。留意したいものである。

 一八七 一つのことで貫く
 孔子が言った。
 「子貢よ。お前はもしかしたら、私が多くのことを学んで、それを覚えている者だと思ってはいないか?」
 「そうです。違いますか?」
 「違う。私は一つのことで貫いて、そこから各々の状況に応じて語っているのだ」
 (衛霊公第十五3)(kindle ver. No. 1062)

 偉人と呼ばれる人ほど、シンプルな原則を中心にして生きているのだろう。では孔子が言う「一つのこと」とはいったい何か。これを探究することは面白いだろう。私の仮説は、「学習回路が開いた状態である仁たる存在としての君子」であるが、いかがだろうか。今後も折に触れて自分自身に問いたいテーマである。


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