2014年11月24日月曜日

【第379回】『荘子 第三冊』(金谷治訳注、岩波書店、1982年)

 なにも知らないで無意識、なにも気にかけないでのびのび、おぼろげなとらえどころのないありさまで、去っていくものを送り、やって来るものを迎え、来るものは拒まず、去るものはひきとめず、強いものは強いままにまかせ、弱いものは弱いままにまかせ、あいて方から[租税を]出しつくしてくるのを待つのです。そこで朝な夕なに租税をとりたてても、少しもあいてを害することがありません。[わたしの場合でさえこうですから、]ましてやすぐれた真実の道を体得した人なら、なおさらすばらしい成果をあげることでしょう。(山木篇 第二十・三

 この部分を読み、「来る者は拒まず、去る者は追わず」と私の師匠がよく言っていたのを思い出した。自分から何らかの作為を持って相手に対応しようとすると、無駄な力が入ってしまう。そうではなく、自然なままで、むしろ自然な関係性をたのしむという態度が重要なのだろう。

 生は死の伴侶であり、死は生のはじまりである。[生と死と]どちらがはじめであるか、だれにもわかりはしない。人が生きているのは気が集まっているからで、気が集合すると生となり、分散すると死となるのだ。もし死と生とが[こうした同じ気の集散で、]伴侶の関係だとわかれば、もはや生死についてくよくよすることは何もなかろう。だから万物も[同じ一つの気の変化であって、もともと]一つなのだ。そこで自分の善いと思うものはめったにない貴重なものだと考え、自分の悪いと思うものは腐った汚物だと考える[のが人情だ]が、腐った汚物はまた変化してめったにない貴重なものになり、めったにない貴重なものもまた変化して腐った汚物となるものだ。だから『世界じゅうのものはすべてただの一気だ。』といわれる。聖人はそこで[こうした根源的な]一の立場を貴ぶのだ。」(知北遊篇 第二十二・一)

 根源的ななにかが、状況に応じて価値判断を伴われるものへと変化する。ある概念や対象物は、一定したものとして、善なるものや悪なるものといった価値が固定したものではない。全ては変化するものであり、私たち自身もまた、変化するものである。そうであるからこそ、何かに執着するのではなく、変化をたのしむという余裕を持ちたいものだ。

 足切りの刑にあった不具者が世間のきまりを守ろうとしないのは、もう人の非難や誉めことばなどに気をとられないからである。徒刑の囚人が高い所で作業をしても恐れないのは、もう自分の生き死にをあきらめて心にかけないからである。そもそも自分で反復内省して恥じるところがなければ、人の世のことも忘れられる。人の世のことが忘れられたなら、そこからやがて天人ーー自然のままの人ーーになれるだろう。そこで、人から尊敬されても別に喜ばず、軽蔑されても別に怒らないというのは、ただ自然の調和と一致したものだけがそうできるのだ。(庚桑楚篇 第二十三・十二)

 どうすれば安定した気持ちを保てるのか。囚人の喩えが、非常に興味深い。私たちは通常、あきらめるという言葉を悪い意味として考える。しかし、現実の世界に執着をしないという観点では、あきらめるという気持ちは悪いものではないのではないか。

 万物はそれぞれに違ったありかたをしているが、道はそのどれかに特になれ親しんだりはしない。だからこれといって名づけようがなく、名づけようがないからこれといった作為もなく、作為がないからあらゆることがなしとげられるのである。時間には始めと終りがあり、世間には変化がある。(則陽篇 第二十五・九)

 万物は変化するものであり、一定したものにはならない。静態的なものにアジャストするのではなく、動態的なものにアジャストし続けること。名づけることは、一時点における対象物を同定するものにすぎず、留まっていれば、その価値は減衰していくものなのだろう。


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