2017年1月29日日曜日

【第674回】『センスは知識からはじまる』(水野学、朝日新聞出版、2014年)

 まずタイトルに安心させられる。センスとは先天的なものと思われがちであるが、知識によって後天的に身に付けられるものと著者は述べる。但し、「センスがないから仕方がない」という安易な言い訳をできなくなることを考えれば、厳しい指摘とも言える。

 「センスがよくなりたいのなら、普通を知るほうがいい」と述べました。そして、普通を知る唯一の方法は、知識を得ることです。
 センスとは知識の集積である。これが僕の考えです。(74頁)

 知識というのは紙のようなもので、センスとは絵のようなものです。
 紙が大きければ大きいほど、そこに描かれる絵は自由でおおらかなものにある可能性が高くなっていきます。(75頁)

 多様な知識を得ることによって、相対的に<普通>を位置付けることができる。それを紙と絵というメタファーで論じているところがわかりやすい。広い世界観を持っていればこそ、その中に自分が提示したいものを位置付けられる。引き出しが多ければ多いほど、表現の幅は広がり、その心地よさがセンスが良いものとして認識される。

 「美術大学などで特別な訓練を受けるわけでもないのに、”センスがいい”と呼ばれる人」とは、知識が豊富な人であり、知識が豊富な人とは仕事ができる人です。知識が豊富な人であれば、上司やクライアントとの会話の際に相手の専門性を感じ取ったり、自分の普通に照らし合わせたり、「チューニング」がうまくできることは多々あります。チューニングがうまくいけば、理解の度合いは深まるでしょう。
 知識とは不思議なもので、集めれば集めるほど、いい情報が速く集まってくるようになります。知らないことがあるとき、上司なり同僚なり部下なりの知識を吸収しようとする人は、「知ろうという姿勢」が習慣としてあるので、ますます知識が増えていきます。逆に、知らないことがあるときそのままにする人は、どこまでいってもそのままです。(142頁)

 知識を増やすことによってセンスが良くなることは、プロダクトや企画のデザインに活かされるだけではない。センスが良くなると、他者との協働が図りやすくなると著者は述べる。なぜなら、他者の興味関心に自分自身の言動を合わせることができて、相手が心地よく働くことができるようになるからだ。そうした関係性が多様に創られることを考えれば、そうした人にはさらに知識が集まり、知識と知識とのつながりも豊かになることは容易に想像できるだろう。

 知識の集積に懸命になりすぎると、人は時として自由な発想を失ってしまいます。センスを磨くには知識が必要ですが、知識を吸収し自分のものとしていくには、感受性と好奇心が必要なのです。(168頁)


 他方で、知識を増やそうとしすぎることにも著者は警鐘を鳴らしている。『論語』を彷彿とさせる警句に続けて、知識とともに感受性と好奇心という自身の想いや感性の重要性を併せ持つことを提言しているのである。


2017年1月28日土曜日

【第673回】『凡事徹底』(鍵山秀三郎、到知出版社、1994年)

 人格者とは何か。人格を磨くとはどういうことか。人生を通じて取り組むべきこうした課題について、イエローハットを一代で創業して社長を務めていた著者が私たちに語りかけてくれる。私たちが大事にしたい、しかし時に忘れがちなものが率直に書かれていて、襟を正される想いがする。

 私の場合はたまたま何もできなかった、特別な才能がなかったということで、才能のない私自身がこの世の中を渡っていくためには、悪いことをするか、あるいは、徹底して平凡なことをきちっとやっていくかのどちらかしかありませんでした。悪いことをする勇気がなかっただけに、鄙事を徹底して今日までやってきましたが、それが結果としては大変大きな力を持っていることをつくづく感じるようになりました。(15頁)

 創業社長が「特別な才能がなかった」と書かれてもいぶかしく思う気持ちは正直ある。しかし、そうであるからこそ「徹底して平凡なことをきちっとやっていく」ということを心がけて実践してきた、という記述に救われる気持ちを感じる。というのも、傍から見ているとあまりに素晴らしい方であっても、題名にもなっている凡事を徹底して実践するということであり、それであれば私たちもできることがあるのではないか、と勇気付けられるからである。

 凡事を徹底すると言うこと優しいが、それを継続することは難しい。では、どのようにして継続することができるのか。そのためには気づくことが大事であると著者は述べる。

 気づく人になるもう一つの条件は、「人を喜ばす」ことです。微差、僅差の追求よりもこちらのほうが大きな要素だと思いますが、たえず人を喜ばせる気持ちで物事をやる、人生を送る、毎日を送るということです。これを続けて一年たてば、本当に人が変わるぐらい気づく人間に変わってしまいます。(27頁)

 微差や僅差を追求することとともに人を喜ばすということが気づくためのポイントであると述べている。前者が自分自身が探求するものであるのに対して、後者は他者目線に立っての行動であり、だからこそ後者こそが大きな要素であると著者は指摘しているのであろう。気づくためには、自分自身の目線ではなく、他者の目線に立つというパラダイムシフトが問われる、ということであろうか。

 さらに、人を喜ばすのレベルをさらに深掘りしているところが著者のすごいところである。二宮尊徳の伝記を用いている。鍬を借りに隣家を訪れた尊徳は、畑を耕して菜の種を蒔こうとしているから貸せないと言われた際に、それらを自分が替わりに行ったという。その結果として、以後は困った時は何でも借りることができるようになった、というエピソードを基に以下のように述べる。

 「ああそうですか、それじゃ、あとでまた貸してください」で終わる人が世の中には大変多いのですが、こういうふうに、一歩踏み込んで人を喜ばすことがいかに大きな力を持つかということです。クワ以外の道具を貸してもらうというのはいかにも小さなことのように見えますが、実はそうではなく、大変大きな力を持っているのです。(29頁)


 ポイントは「一歩踏み込んで人を喜ばす」という点であろう。否定的な反応を受けたとしても、さらに踏み込んで相手の目線に立って、相手にどのように貢献できるかを考える。心して読みたい箇所である。

2017年1月22日日曜日

【第672回】『ビギナーズ・クラシックス 史記』(福島正、角川学芸出版、 2010年)

 言うまでもないが、歴史書の嚆矢であり、その代表的な一冊である史記。その書がどのように編み出されたのかに関する著者の仮説が興味深い。

 選ぶという行為そのものが主体性に基づくわけですから、怨みに突き動かされる伍子胥の人間像を鮮明にするためには、「墓に鞭うつ」よりも「尸に鞭うつ」の方がよいと司馬遷が判断したことだけは確かです。ここに取り上げたのは小さな違いですが、こうした微細なところにこそ、司馬遷の、あるいは歴史家たちの、歴史叙述に寄せる思いが示されているのです。(72頁)


 何かを選び、何かを捨てるという作業によって、歴史書は著さられるという、言われれば至極もっともな内容に、はっとさせられた。歴史はフィクションであるとすることもできるが、語り継がれる何かが生み出されると考えることもできる。そうであるからこそ、歴史書は生み出され続け、素晴らしい歴史書は時代を経てもその輝きを失わないのではないか。


2017年1月21日土曜日

【第671回】『経営戦略全史』(三谷宏治、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2013年)

 経営戦略を歴史として学ぶ意義は何か。著者は端的に「似たような状況でもいろいろなことが起こりうるし、いろいろな戦略が有効である得る」(11頁)ことを学ぶことにあるとしている。

 こうした著者の考え方には共感できるし、それに基づいた本書の編集のあり方にも好感が持てた。それぞれの経営戦略論どうしの関係性が簡潔かつ丁寧に書かれており、それぞれの論が生じてきた背景とその射程を理解することができる。

 特に興味深く感じたのは、ゴビンダラジャンのリバース・イノベーションに関する以下の記述である。

 リバース・イノベーションを盛んにするためには、ローカル(新興国・途上国側)に経営資源を投入し、権限を与えなくてはいけません。またそのローカル・イノベーションが先進国に逆流してきたときに発生するであろう、自社高級品との共食いも、甘受しなくてはなりません。
 そのためにゴビンダラジャン(VG)は「現地に小さな機能横断型の起業組織をつくろう」と言います。そこに機能と権限と責任を与えようと。(294頁)


 ここでは経営という領域を想定しているが、人事などのスタッフ部門においてもこの考え方を援用できるのではないかと邪推した。つまり、中央の本社人事が機能ごとに分かれることによって効率化が実現できる一方で、現場における新たな変化に流動的かつ柔軟に対応することが難しくなることが多い。そうした弊害を軽減するためには、部門人事において機能横断的に対応することが、直接部門への価値貢献に繋がるのではないか。ビジネスを取り巻く環境変化が激しくなればなるほど、そのようになると考えるのは考えすぎではないと思う。


2017年1月15日日曜日

【第670回】『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』(入山章栄、日経BP社、2015年)

 カジュアルに読めて、それでいて知的刺激を得られるという書籍もいいものだ。日頃、ビジネス書は好んで読まないが、本書は面白く読めた。読み易い簡潔な文章でありながら、考えさせられる示唆に富んだ箇所がいくつもあった。

 ドミナント・デザインを確立した組織は、部門間のコミュニケーションの大胆な変更・調整が難しくなっていきます。したがって既存の大企業ほど、その後出てくる「新しい組み合わせ」によるイノベーションに対応できないのです。すなわち、革新的イノベーションに対応できないのは、技術問題以上に、ドミナント・デザインに端を発する組織問題なのです。ドミナント・デザインはある程度の規模以上であれば、どの企業も抱える本質的な問題といえます。(87~88頁)

 クリステンセンの『イノベーションのジレンマ』を想起してほしい。破壊的イノベーションになぜ大企業は対応できないのか。イノベーションの本質は組み合わせによって為せる技であり、組み合わせを促す組織には冗長性が求められる。そうなると、既存のビジネスモデルを追求するために組織を効率化させることを目指していると、そうしたイノベーションを生み出す環境から離れていくことを意味する。そうであるから、イノベーションを阻害するのは、勝ちパターンのビジネスモデルに組織を最適化することなのである。

 ではどのように留意することができるのか。本書では、そのヒントとなる考え方も提示されているからありがたい。

 医薬品産業における「アーキテクチュラルな知を高める組織特性」は二つです。それは、(1)研究者が会社の枠を超えた広範な「研究コミュニティー」で知識交換することが評価される組織であること、そして(2)社内でも分野の垣根を幅広く越えて情報を交換することです。(90頁)

 成功している大企業であっても、組織内外における情報交換の場を支援する組織であれば、イノベーションを起こすために必要な知の交流が実現できるとしている。本書はアメリカのビジネススクールにおける最新の知見を紹介すると謳っているが、ここでの実戦的示唆は、石山先生が『組織内専門人材のキャリアと学習ー組織を越境する新しい人材像ー』で明らかにした点と符合するから面白い。

 このようにして胚胎されるイノベーションの萌芽は、すべてが芽を出すのではなく、むしろ少数である。では芽を出すまでに必要なステップには何があるのか。

 予想通り「従業員の創造性の高さ」→「アイデアの実現」の関係は、その人が(1)実現へのインセンティブを強く持ち、(2)社内に強い人間関係を多く持っている場合にのみ、大きく高まる、という結果を得たのです。(102頁)

 創造性を持つ社員がいることは想像しやすいが、そうした人物が企業のビジネスの文脈に合わせて他者と協働できることが必要とされる。もちろん、一人の人物が二つの要素を兼ね備えればいうことはないが、それはジョブズなど一部のスーパーパーソンに限られるだろう。この現実に照らせば、(1)の人物と(2)の人物とを組み合わせて組織の中でイノベーションを進める組織デザインと人材配置を工夫することが私たちが取り組むべき課題なのではないだろうか。



2017年1月14日土曜日

【第669回】『関わりあう職場のマネジメント【3回目】』(鈴木竜太、有斐閣、2013年)

 自らの職務を考えようとする時に読み返したくなる書籍は、研究者の先生方が著したものばかりである。具体的な事象を抽象化し、理論として練り上げられているために、自分自身が課題を抱えている際に、思考を深掘りしたり視野を拡げるために活用したくなる。

 例を挙げればきりがないが、書籍ということであれば、平野光俊さん(『日本型人事管理』など)、中原淳さん(『職場学習論』など)、松尾睦さん(『「経験学習」入門』など)、石山恒貴さん(『組織内専門人材のキャリアと学習ー組織を越境する新しい人材像ー』など)、江夏幾多郎さん(『人事評価の「曖昧」と「納得」』など)といったところであろうか。

 本書を読み直したいと考えたのは、日本企業に見られるジョブ・ローテーションの効果を高めるためには、どのような設えにするべきかを改めて考えたかったからである。本書では、社員個人が自律的にキャリアをすすめ行動することと、職場における社員同士の関わり合いが共存できることが示唆されている。本書での発見事実に基づけば、両者は逆転共生関係にあるのだから、片手落ちになったりやり過ぎてしまったりすると逆効果になりかねない点に注意が必要だ。

 ではどのように考えることができるのか。

 HRの職責としては、基本的には組織目線での人材管理を担うことになるわけであり、個人目線でのキャリア・ディベロップメントをフォローし、部署への丸投げを防ぐことが重要だろう。部署への丸投げ防止については、ローテーションが円滑に進むように職務を文言化することのサポートが必要だろう。また、人材の育成という観点では、MBOを通じて上司が部下の業務遂行の支援とともに、ジョブをストレッチすることを支援できるよう仕組みをメンテナンスすることも重要だ。

 また、特定のタレントについては、その上司や部門長に対して職務アサイン自体を丁寧にフォローし、タレント側のキャリアビジョンを勘案したローテーションを検討することも求められると言えるだろう。これは、個人に迎合するのではなく、個人の意思を尊重しながら同時に組織の活性化やKPIの達成という組織目線の二つを統合する形であるべきだ。


 と、このように、潜在的に考えていたことを、思考を進めながら文字にできるような活性剤になるので、学術書というものはうれしい。とはいえ、書きながらも自分が考えていることをスムーズに書けずにもどかしい思いもよくするのであるが。

2017年1月9日月曜日

【第668回】『ビギナーズ・クラシックス 老子・荘子』(野村茂夫、角川学芸出版、2004年)

 老荘思想と一括りに論じられ、孔孟思想と対置される両者の思想。大枠としてそうした論法は正しいのであろうが、その違いについても、後世を生きる私たちは理解する必要があるだろう。本書は、そうした期待に応えてくれる一冊である。

 両者の中心的な概念の一つである道に関する相違が分かりやすい。まずは老子から見てみよう。

 老子は、「道」はすべてのものの根源であり、万物はそこから生まれてくるとします。そこで、何ごとにつけ自分たちの母である「道」に従うのが最も正しい在り方であるといいます。その「道」のはたらきには、わざとらしい作為は何もなく、すべて自然にそうなるのです。そこで、「道」に従うとは、不自然なことはせず、素朴で自然のままに生きることです。それを「無為自然」といいます。「足るを知る」「止まるを知る」というのもその一つのあらわれです。(15頁)

 道という鍵概念が存在し、それに基づいて万物が生み出されるという発想を老子は用いる。外的なイデアとしての道が存在し、すべての生物は、道を体現しようと自然に生きることが理想的な生き方なのである。

 それに対して、荘子が主張する道に基づいた生き方は少し異なる。

 「道」はあらゆるものの中にあると考えます。この世のすべてのものは、それがどんなにつまらないようなものでも、それぞれのうちに「道」があります。その点においてあらゆるものに価値の違いはありません。これを「万物斉同」(すべてのものはひとしい)といい、そしてそれぞれがもつ特質を生かすのが「道」に従った生き方となります。(15頁)


 唯一の道というものが外的に存在するのではなく、すべての存在に内的に道は存在し得るとするのが荘子であると著者は指摘する。したがって、多様な道が存在するものであり、それは変化し得るものなのであろう。飛躍を承知で述べれば、老子を下敷きにしながら、荘子がすすめた道の概念が、ダイバーシティが重視される現代社会において求められるものなのではないだろうか。


2017年1月8日日曜日

【第667回】『ビギナーズ・クラシックス 古事記』(角川書店編、角川学芸出版、2002年)

 日本最古の歴史書を改めてカジュアルに学び直せる素晴らしい書籍である。原著を充実に、かつ大胆に意訳しながら古事記の概要を一通り読み進めることができる。

 『古事記』の中でもっとも文学の香り高い物語として有名な章段である。たんなる兄弟争いのように見えるが、真のねらいは王権の拡張にある。(120頁)

 いわゆる海幸彦・山幸彦の兄弟を考察した箇所である。古事記には、きょうだい間の争い印象を受けていたが、その争いの結果として既存の王権が及ぶ範囲が広がっていると捉えることは納得的である。<日本>の各地域を出しながら、そこでの争いや闘いを描くことで、<日本>の形成とそこにおけるアイデンティティの醸成を導き出す。これが歴史書としての古事記の位置付けなのである。

 天皇の王威と神威とが対等だった時代の、いささかユーモラスな話である。やがて訪れる律令時代には、こんな話など生まれようもないほど、神威は下落していく。(244~245頁)


 雄略天皇が一言主の大神に出会うシーンからの考察である。お互いにお互いを尊重する描写から、王権と神権とが対等であったとしている。さらに言えば、神権によって王権が正統付けられていると解釈できる。こうした物語によって、天皇の王権を権威付けようとしたのが歴史書の意義であろう。


2017年1月7日土曜日

【第666回】『ビギナーズ・クラシックス 方丈記(全)』(武田友宏編、角川学芸出版、2007年)

 「行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」で始まる一節は、中学や高校で学んだことを記憶している方も多いだろう。しかし、方丈記を全て読んだことがある方はどのくらいいるのだろう。

 本シリーズでは、日本や中国の古典をカジュアルに学ぶことができるありがたい企画に基づいて創られたものである。入門として学ぶには最適なシリーズであり、本作では方丈記を通して触れることができる。

 「無常」という真理の限りない広さと底知れぬ深さとを、人生観の大前提に据えなければならないと考えているからだ。長明にとって「無常」なしの人生はありえない。「無常」だからこそ人生は生きる価値があり、生きる喜びも生まれてくる。要するに「無常」の極限には人間の生死そのものがある。(22頁)

 方丈記のポイントは無常にあると著者は端的に指摘する。鴨長明が方丈記を書いた時代には、天災と人災とが多くあった。環境に恵まれない状況でも生きていくためのマインドセットとして無常観が大事であったのだろう。そして、無常観は現代を生きる私たちにも求められているものなのではないだろうか。では、無常のポイントとは何か。

 仏の教えはあらゆる執心つまり価値判断を断てと説いている。従って、「無常」論の本質は、あらゆる価値観を拒絶するものでなければならない。(148頁)


 何かに執着することを否定し続けることが、無常には求められるという。好悪や価値判断をすることは、対象に執着することである。そうしたものを否定し続けること。難しいことではあるし、完全に行うことは無理なのかもしれない。しかし、その状態を目指すことにも意義があるのではないだろうか。


2017年1月6日金曜日

【第665回】『モモ』(ミヒャエル・エンデ、大島かおり訳、岩波書店、2005年)

 十七歳の頃、時間、疎外、近代化、といったテーマを受験勉強の中で懸命に考えていた。白状すれば、枠組みに嵌めて小論文という形式でアウトプットするということに対する気持ちよさもあったが、自分なりに思考自体のたのしさに触れた経験でもあった。

 本書のテーマは周知の通り時間である。時間をめぐり、主人公モモと時間泥棒とのやり取りを主軸にして物語が展開する。人々が時間を失う過程において、近代化および疎外を考えさせられる。

 時間をケチケチすることで、ほんとうはぜんぜんべつのなにかをケチケチしているということに、だれひとり気がついていないようでした。じぶんたちの生活が日ごとにまずしくなり、日ごとに画一的になり、日ごとに冷たくなっていることを、だれひとりみとめようとはしませんでした。
 でも、それをはっきり感じはじめていたのは、子どもたちでした。というのは、子どもにかまってくれる時間のあるおとなが、もうひとりもいなくなってしまったからです。
 けれど時間とは、生きるということ、そのものなのです。そして人のいのちは心を住みかとしているのです。
 人間が時間を節約すればするほど、生活はやせほそっていくのです。(106頁)


 時間が大事であるということに異論を挟む人はいないだろう。大事であるからこそ、私たちは時間を無駄にしないようにと心がける。そうした意識が強くなりすぎると、吝嗇の気持ちが時間に対しても向くようになってしまう。その結果、何に対しても効率化を求めて、楽しみや面白みが失われ、最も大事な時間を汲々と過ごすだけになってしまう。子どもを対象とした物語を通して深く考えさせられるからこそ、時代と空間を超えた名著になるのであろう。

【第156回】『カラマーゾフの兄弟』(ドストエフスキー、原卓也訳、新潮文庫、1978年)

2017年1月5日木曜日

【第664回】『決断力』(羽生善治、角川書店、2005年)

 決断とは、決めて断つことである。決めることに焦点が当たりがちだが、何かを断つことを含意する。何かを断たなければ何かを決めることはできないのであり、だからこそ、決断は難しい。

 プロの勝負の世界に中学生の頃から身を投じて来た著者は、一局一局の中で決断を続けてきた。そうした人物が語る決断力から、私たちは多くのものを学ぶことができるだろう。

 経験には、「いい結果」、「悪い結果」がある。それを積むことによって色々な方法論というか、選択肢も増えてきた。しかし、一方では、経験を積んで選択肢が増えている分だけ、怖いとか、不安だとか、そういう気持ちも増してきている。考える材料が増えれば増えるほど「これと似た様なことを前にやって失敗してしまった」というマイナス面も大きく膨らんで自分の思考を縛ることになる。
 そういうマイナス面に打ち勝てる理性、自分自身をコントロールする力を同時に成長させていかないと、経験を活かし切るのは難しくなってしまう。(32~33頁)

 何事も経験することが大事であり、経験から学ぶことができるはずだ、という言説に疑問を投げかけるつもりはない。しかし、経験至上主義で捉えると誤る側面があることを著者は指摘している。つまり、ネガティヴな経験が、私たちの現在を縛るリスクがあることであり、そうしたものを克服するマインドセットを涵養することが同時に求められるのである。

 勝負の世界では「これでよし」と消極的な姿勢になることが一番怖い。組織や企業でも同じだろうが、常に前進を目ざさないと、そこでストップし、後退が始まってしまう。(43頁)

 安定を求めたり変化を嫌う個人や組織は恐ろしい。社会や国家全体が成長している局面では、そうしたマインドセットでも対応できることがあろうが、現代社会においてはそうした局面は極めて希少である。前進とは、何らかのスキルを向上させたり能力を向上させるということを意味しないだろう。自分自身の価値観の拡がりを感じたり、度量を拡げるといったことも前進と捉えれば、私たちができること、やるべきことというものを感じ取ることができるのではないだろうか。

 できるだけ可能性を広げて、自分にとってマイナスにならないようにうまく相手に手を渡すのだ。(37頁)


 何度読み返してもこの箇所が好きで読み直してしまう。自分本位で全てを為そうとするのではなく、他者、とりわけ対戦相手にいわばイニシアティヴを渡すという度量の深さ。これが著者の決断力や勝負勘の真髄なのではないだろうか。


2017年1月4日水曜日

【第663回】『仕事漂流 就職氷河期世代の「働き方」(2回目)』(稲泉連、プレジデント社、2010年)

 日常的には世代論に与さない、もしくは与したくないと思っている。しかし、キャリアについて考えたり、自分自身のありようについて考えようとするときに、就職氷河期世代の人々の考え方というものに触れてみたくなることがある。

 人によって、環境によって、そのキャリア観が異なるのは当然だ。だからこそ多様な社会、多様な組織というものが形成される。しかし、それでも、共感できる何かが存在するということが、同じ世代というものなのではないかと思うのである。

 世の中全体、日本の経済全体が膨らんでいたときは、働く個人が現状維持でも総体としては自分も一緒に膨らんでいたけれど、僕らは(就職氷河期にしろリーマン・ショック後の不況にせよ)縮小すらしかねない時代をずっと生きてきた。時代が『右肩下がり』だというのであれば、現状維持という考え方では時代と一緒に落ちていってしまう。(174頁)

 変化していかなければならないという切迫感を持つのは当然だと思ってしまう。こうした感覚を当たり前のように持つのは、就職氷河期世代の特徴だそうだ。物心がついた頃から不景気で、世の中が良くなっていくという感覚をリアルに感じたことがないのだから、後ろ向きに動いていく社会に抗う必要性があると強く思う。だからこそ、成長や成長実感を私たちは求めるのであろう。

 時間をいかに短縮するか、という感覚がいつもある。同じ会社に留まっていれば五年先に必ずできることが分かっている仕事でも、いますぐできるチャンスが別の会社にあれば、迷わずに転職を選ぶ。時間を飛び越えていく感じです。会社ありきの自分のキャリアパスなのか、自分ありきでどこかの会社で働くのか。私の感覚って逆転していると思います。自分がこういうことをやりたいから、それに合う会社を選んでいく(346頁)


 あらゆる環境が、成長実感を与えてくれるわけではない。黙って一つのところの留まっていると、損をすることがある。むしろ、損をすることの方が多いのではないか。こうした疑念をぬぐい去るために、成長できる環境を、私たちは主体的に選ぶ必要がある。


2017年1月3日火曜日

【第662回】『ドラッカーと論語(2回目)』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)

 マーケティングとはセールスを不要にするための行為であると喝破したのがドラッカーの論のハイライトの一つである。顧客を理解することはマーケティングの重要な要素に含まれることは間違いない。しかし、顧客の視点に立とうとして質的・量的な市場調査に安易に委ねることは、ドラッカーの本意と異なるのではないかと著者は警鐘を鳴らす。

 「お客様目線」といった考え方は、自らの身体の及ぶところではない他人の感覚に自分を迎合させることになる。それは、自分の感覚を他人に譲り渡し、「己」を見失うことである。すると、己を知るという過程は消滅してしまう。(kindle ver. No. 1017)

 ドラッカーも孔子も「己を知る」ということこそが、すべての始まりだと述べている。他人にどんなことをして欲しいのかとたずねているようでは、決して「己を知る」ことはできないのである。(kindle ver. No. 1026)

 お客様の視点に立つ前に、自分自身を知るということが重要だとしているのである。もっと言えば、引用箇所の前の部分で、周囲や社会における自分自身をどのように位置付けるかが大事であるとしている部分に注目するべきであろう。

 そうした企業の事例として、ユニ・チャーム社がインドネシアで日本製のオムツを如何にしてマーケットに浸透させたケースをぜひお読みいただきたい。安易な市場調査などは不要であるばかりか時に害を為すものであり、ステイクホルダーの中で相対的に自社の製品の強みを見出すことの重要性を理解できるだろう。


 これは必ずしも企業をはじめとした組織に顕著なものではなく、私たち個人にも当てはまるのではないか。自分自身の視点から強みを見つけようとするばかりではなく、他者・組織・社会といった具合に一歩か二歩ほど引いた視点に立ってみて、自分自身の強みを定義し位置付けることが重要なのである。そうした意味での社会的かつ主観的な強みに自覚的にフォーカスすることが、自分自身と共に周囲の人々をゆたかにすることにつながるのではないだろうか。


2017年1月2日月曜日

【第661回】『自分の仕事をつくる』(西村佳哲、晶文社、2003年)

 働くということ、キャリアをすすめること、生きるということ。これらと密接に関連する仕事というものを考える上で、私にとって本書における考察は一つの重要な拠り所となる。

 仕事は自分をつくり、自分を社会の中に位置づける、欠かせないメディアである。(126頁)

 日本人のみならず、外国人も含めて何人もにインタビューを行った結果として、著者が導き出した仕事観が端的に現れている。主体的に取り組むことによって仕事が自分自身を創り出すのであって、その反対ではない。そうした主体性の結果として社会における自分自身の価値が見出されることで社会性を持つことができる。そうしたものを媒介するものとして職業としての仕事が位置付けられる。

 思いっきり単純化すると、「いい仕事」とは嘘のない仕事を指すのかもしれない。(173頁)

 こうした主体性に伴う社会性を持った仕事という概念であればこそ、いい仕事というものは、自分に対しても、相手に対しても、社会に対しても嘘をつかない行為を指すのであろう。自戒を込めて傾聴したい部分である。

 ではこのような仕事観に基づいて私たちははじめの一歩をどのように踏み出せるのか。難しく頭で考えるのではなく、動きながら、様々な感覚を持ってそこから得られるフィードバックを基にデザインしていくことを著者は重要視している。それを端的に表すのが、以下のインタビュイーの言葉である。


 大切なのは、本当の問題を発見していく能力です。表面的に目につく問題点は、より根本的な問題が引き起こしている現象のひとつにすぎないことが多い。では、問題に深くアプローチしていく方法とはなんでしょうか。それは、机の上で頭を捻って問題を予測することではない。早い段階から、可能な限り具体的にテストし、トライ&エラーを重ねていくこと。これに尽きます。(80頁)


2017年1月1日日曜日

【第660回】『日本文化私観』(坂口安吾、青空文庫、1943年)

 著者の文章は、ウィットとアイロニーに富んでいる。以前はその独特なアイロニーがしつこいように感じ敬遠しがちであったが、最近では、ところどころの絶妙なウィットが楽しくて無性に読みたくなることがある。

 美は、特に美を意識して成された所からは生れてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。(kindle ver No.451)

 日本における文化とは何か。意図的に美しさを狙ったものは、美しくはないと著者はする。その上で、必要なものを、必要に迫られて作ったり書いたりすることによって、美的な何かが生み出される。


 私たち日本人が労働において美を感じたり、すぐに文化という文脈で組織風土を捉えようとすることは、こうした美に対する感覚が現れているのではないか。シンプルな文章をもとに、こうした飛躍的解釈を試みることもまた、面白い。