まずタイトルに安心させられる。センスとは先天的なものと思われがちであるが、知識によって後天的に身に付けられるものと著者は述べる。但し、「センスがないから仕方がない」という安易な言い訳をできなくなることを考えれば、厳しい指摘とも言える。
「センスがよくなりたいのなら、普通を知るほうがいい」と述べました。そして、普通を知る唯一の方法は、知識を得ることです。
センスとは知識の集積である。これが僕の考えです。(74頁)
知識というのは紙のようなもので、センスとは絵のようなものです。
紙が大きければ大きいほど、そこに描かれる絵は自由でおおらかなものにある可能性が高くなっていきます。(75頁)
多様な知識を得ることによって、相対的に<普通>を位置付けることができる。それを紙と絵というメタファーで論じているところがわかりやすい。広い世界観を持っていればこそ、その中に自分が提示したいものを位置付けられる。引き出しが多ければ多いほど、表現の幅は広がり、その心地よさがセンスが良いものとして認識される。
「美術大学などで特別な訓練を受けるわけでもないのに、”センスがいい”と呼ばれる人」とは、知識が豊富な人であり、知識が豊富な人とは仕事ができる人です。知識が豊富な人であれば、上司やクライアントとの会話の際に相手の専門性を感じ取ったり、自分の普通に照らし合わせたり、「チューニング」がうまくできることは多々あります。チューニングがうまくいけば、理解の度合いは深まるでしょう。
知識とは不思議なもので、集めれば集めるほど、いい情報が速く集まってくるようになります。知らないことがあるとき、上司なり同僚なり部下なりの知識を吸収しようとする人は、「知ろうという姿勢」が習慣としてあるので、ますます知識が増えていきます。逆に、知らないことがあるときそのままにする人は、どこまでいってもそのままです。(142頁)
知識を増やすことによってセンスが良くなることは、プロダクトや企画のデザインに活かされるだけではない。センスが良くなると、他者との協働が図りやすくなると著者は述べる。なぜなら、他者の興味関心に自分自身の言動を合わせることができて、相手が心地よく働くことができるようになるからだ。そうした関係性が多様に創られることを考えれば、そうした人にはさらに知識が集まり、知識と知識とのつながりも豊かになることは容易に想像できるだろう。
知識の集積に懸命になりすぎると、人は時として自由な発想を失ってしまいます。センスを磨くには知識が必要ですが、知識を吸収し自分のものとしていくには、感受性と好奇心が必要なのです。(168頁)
他方で、知識を増やそうとしすぎることにも著者は警鐘を鳴らしている。『論語』を彷彿とさせる警句に続けて、知識とともに感受性と好奇心という自身の想いや感性の重要性を併せ持つことを提言しているのである。
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