2017年9月9日土曜日

【第749回】『老子』(4回目)(金谷治、講談社、1997年)

 老子を読むのはどういうタイミングがいいのだろうか。忙しい日々を送りながら、せめて限られた時間だけでもリラックスしようと読むのもいいだろう。他方、ゆとりがある時に時間を気にせずに読むのもまた趣深い。今回は、後者に該当するタイミングでの読み直しであり、贅沢な時間を堪能した。

 「道」はからっぽで何の役にもたたないようであるが、そのはたらきは無尽であって、そのからっぽが何かで満たされたりすることは決してない。満たされていると、それを使い果たせば終わりであって有限だが、からっぽであるからこそ、無限のはたらきが出てくるのだ。(4 道は沖しきも(「道」のはたらき(1))

 「道」とは何かを語る書が論語であるとしたら、「道」の周囲を語ることでそのはたらきを読み手に考えさせようとする書が老子ではないだろうか。通常、論語と老子とは相対立する存在であると考えられており、実際にそうなのだろうとは思う。

 しかし、後世に生きる第三者としての私たちは、両者をそれぞれ味わえる僥倖を楽しめば良い。相対立するものとは相補関係にあるものでもあり、私にとっては、両者の主張は真反対にあるとは思えないのであるが、いかがであろうか。

 ほんとうに完全なものは欠けたところがあるかのようであって、そのはたらきはいつまでも衰えることがない。ほんとうに充満したものはからっぽであるかのようであって、そのはたらきはいつまでも尽きることがない。
 ほんとうに真っ直ぐなものはまるで曲がっているかのようである。ほんとうに巧妙なものはまるでへたくそであるかのようである。ほんとうに雄弁なものはまるで口べたであるかのようである。(45 大成は欠くるが若く(中空の妙))


 空だからこそ可能性が溢れている。可能性があるからこそ、持っていないことを肯定することができる。欠損した感覚を持つことで、そのギャップを埋めるための努力を継続することができるのは、何かを持たないことを肯定的に捉えているからなのであろうか。


0 件のコメント:

コメントを投稿