2017年9月10日日曜日

【第750回】『落日燃ゆ』(城山三郎、新潮社、1986年)

 半藤一利さんの『昭和史1926−1945』を久々に読み直した。改めて清新な気づきを得ながら、当時首相や外相を務めた広田弘毅について辛辣に評価していた箇所が印象に残った。さらに言えば、広田を評価した本書にも決して良い文脈ではないながらも言及していたことから、読もうと思い至った。

 半藤さんの著作は好きであるが、本書における広田弘毅に対する評価にも読ませる箇所があったように思う。何が正しく何が間違っているというように論評するのではなく、広田の生き様から何かを学ぶという態度で読むことで得られるものがあるのではないか。個人的には論語を文字通り座右の書として毎晩読んでいたというエピソードに魅了された。

 広田の特長のひとつは、早くから、先輩や仲間との交わりを深め、互いに啓発し、知恵や情報を吸収し合って生きて行こうと努めたことである。人と人との生身のふれ合いや耳学問を大切にし、ただの読書家に終らなかった。(17頁)

 他者との交流を大事にして多様で開かれた学びを重視する広田の姿は、論語の「学んで思わざれば則ち罔し。思うて学ばざれば則ち殆うし。」(為政第二・一五)を彷彿とさせる。論語読みの論語知らずではない、身体に落とし込まれた論語が、広田の行動の拠り所となっていたのであろう。

 万歳万歳を叫び、日の丸の旗を押し立てて行った果てに、何があったのか、思い切ったはずなのに、ここに至っても、なお万歳を叫ぶのは、漫才なのではないのか。
 万歳! 万歳! の声。それは、背広の男広田の協和外交を次々と突きくずしてやまなかった悪夢の声でもある。広田には、寒気を感じさせる声である。生涯自分を苦しめてきた軍部そのものである人たちと、心ならずもいっしょに殺されて行く。このこともまた、悲しい漫才でしかないーー。(377頁)


 極刑へと向かう最期のシーンに、潔さと虚しさとがないまぜになり、人間の生き様が凝縮されているように思える。


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