大きな勝利の後には、挫折や敗北が待ち受けることは、人や組織という単位だけではなく、国家にとっても当てはまるのであろう。人や組織の集合体が国家なのであるから、自明といえば自明である。そうであるからこそ、国家における混迷とその乗り越えの経験は、組織や人といったミクロな存在にとっても有益な事例となるのではないか。
本作と次の巻ではローマという国家の苦境が描かれることになるようだ。他山の石として他人事のように捉えるのではなく、自分たちにとっての糧として最良の学びの素材としたいものである。
まったく、「混迷」とは、敵は外にはなく、自らの内にあることなのであった。(113頁)
混迷という言葉の持つ意味合いは、外的環境にあるのではなく内部環境に問題があることを示すという指摘にハッとさせられる。私たちは、敵という存在を外に求めたがる。それが正しいことも多いのだろう。しかし、問題の所在が自分の内側にある時、私たちは幻としての敵を外に見出そうと躍起になり、問題が見つからずに苦しむ。そうした状況が混迷であり、自分の内側を眺めることの重要性が指摘されている。
すべての物事は、プラスとマイナスの両面をもつ。プラス面しかもたないシステムなど、神の技であっても存在しない。ゆえに改革とは、もともとマイナスであったから改革するのではなく、当初はプラスであっても時が経つにつれてマイナス面が目立ってきたことを改める行為なのだ。(155頁)
組織改革、意識改革、制度改革、最近では働き方改革という言葉もある。以前あったものを壊すことに痛快な印象を持つことは、小泉改革で熱狂した私たちにとって決して古い記憶ではないだろう。しかし、改革によって改められる存在は、それが生じたときからマイナスだったものではなく、プラスの意図を持ったものである。そのことを忘れて改革に酔っていると、改革ばかりを志向して高揚感に酔うだけの状態になってしまう。聴き心地にいい言葉には気をつけたいものである。
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