2017年9月25日月曜日

【第756回】『ローマ人の物語3 ハンニバル戦記(上)』(塩野七生、新潮社、2002年)

 他の国家ではなく、なぜローマが覇権国家となり得たのかという問いが、著者が本シリーズを著す主要な動機であったそうだ。シリーズを通して、著者はその答えを紐解いているのであろうが、本作にそのヒントがいくつも提示されていたように思える。キーワードは寛容ということではないだろうか。

 敵方の捕虜になった者や事故の責任者に再び指揮をゆだねるのは、名誉挽回の機会を与えてやろうという温情ではない、失策を犯したのだから、学んだにもちがいない、というのであったから面白い。(63頁)

 他国への寛容については、ここまでの二冊に描かれていた通りであるが、ここでは自国のトップへの寛容さが指摘されている。もちろん、言動に問題がある場合には厳格に対応されるようだが、結果としての失敗については寛容に接している。戦争に敗れるというのは大きな失敗であることは間違いない。しかし、敗戦の責を受ける責任者に対して、失敗から学んだであろうからという理由で罰しないばかりか、改めてトップに再任させるのであるから徹底している。

 これは、マキアヴェッリが賞賛を惜しまなかった点だが、共和政ローマでは、軍の総司令官でもある執政官に対し、いったん任務を与えて送り出した後は、元老院でさえも何一つ指令を与えないし、作戦上の口出しもしないのが決まりだった。任地での戦略も作戦の立案も、完全に執政官に一任されていた。敗北の責任を問わないのも、心おきなく任務に専念してもらうためでもある。また、講和を申し出るのも受けるのも、講和の条件を提示することからその交渉まで、執政官に一任されていたのである。(85頁)

 民主的に選ばれた指揮官に対して、市民も、議会も、全権を委ねるという点も徹底している。現地に優秀な人材を派遣しても、意思決定は遠く離れて中央で行ったり、中央からの横槍で自由かつ柔軟な対応ができなかったのは太平洋戦争時の日本軍である。『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』を彷彿とさせられる箇所である。

 ローマ人の面白いところは、なんでも自分たちでやろうとしなかったところであり、どの分野でも自分たちがナンバー・ワンでなければならないとは考えないところであった。(104頁)

 ここに至ると寛容というか鷹揚とした印象である。ビジネスモデルの根幹となる部分について自社にコンピテンスを集約し、それ以外の取り換え可能な部分についてはアウトソースをする。現代の企業に求められるマインドセットをローマという国家は有していたのではないだろうか。

 ローマ人には、マニュアル化する理由があったのだ。指揮官から兵から、毎年変るのである。誰がやっても同じ結果を生むためには、細部まで細かく決めておく必要があった。(142頁)


 寛容を重んじるということは、規律がないということではない。むしろ反対である。規律を設け、マニュアル化を重視することで、自分に対しても他者に対しても寛容かつ柔軟に対応することができるのである。マニュアル化による人材のローテーションやそれに伴う育成の利点は、『関わりあう職場のマネジメント』を読んでいただくと、企業での応用について示唆を得られるかもしれない。


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