2017年9月17日日曜日

【第752回】『応仁の乱』(呉座勇一、中央公論新社、2016年)

 少し前に放映されたあるテレビ番組で、応仁の乱には英雄がいない、だから私たちの多くにとって興味がそそられない、と言われていた。本書を読んで、その背景がよくわかった。公的な目的、大きな意志、胸が躍るような企て、といったものは全く見当たらない。

 だからといって、応仁の乱は私利私欲のために行われたつまらない戦というだけには留まらない意味があったと著者は述べる。よく言われるように、戦国時代の幕開けとなる出来事であり、それはすなわち社会とそれを構成する権力主体の大きな変化を促した一大イベントだったのである。

 将軍権力の復活を目指す義政は大守護の勢力削減に努めた。畠山氏に対しては家督争いを煽るという手を用い、山名氏に対しては宿敵の赤松氏を復活させるという策を採ったが、斯波氏に対しては甲斐氏を支援する作戦で臨んだのである。(67頁)

 暗愚で恬淡としたイメージが持たれている足利義政の応仁の乱の直前の戦略を描写した場面である。為政者として、それなりに大局的に捉えられているように私には思え、義政という人物の意外な一面を見るようであった。但し、反対に言えば、こうした権謀術数に過ぎた策略をコントロールしきれなくなったところに、応仁の乱の沈静化までに時間が掛かった原因の一つなのではないだろうか。つまり、天下国家の話ではなく、各守護大名の内部における私闘が同時発生的に起きたために、全ての火種が消えないと銭塘行為を止める積極的な機運につながらなかったのであろう。

 この足利義政の後任をどう捉えるか、つまり後継者に肩入れすることで自身の権力を高めるということが乱の発端となった。著者が72~74頁でまとめている三類型は以下の通りである。

(1)義政の子・義尚が成長した後に将軍交代。中心人物:伊勢貞親。
(2)義政の弟・義視へのすみやかな将軍交代。中心人物:山名宗全。
(3)義政⇒義視⇒義尚という穏健的な将軍交代。中心人物:細川勝元。

 応仁の乱に関する歴史の教科書での説明では、西軍の大将格・山名宗全と東軍の細川勝元が出てくるだろう。しかし、三つの派閥が最初の対立点であったと著者はしている。(2)と(3)が後任を義視にすることで協力することで(1)を追い出すことに成功し、しかしそれは同時に共通の敵を失ったことで(2)と(3)の対立が先鋭化することをも招いた。

 ではなぜ西軍と東軍との戦闘状態は長期化したのか。先述した各守護大名内の対立が大きな理由ではあるが、それを可能とした手段の変容も挙げられている。

 応仁の乱では、両軍が陣を堀や井楼で防御したため、京都での市街戦は実質的に“攻城戦”になった。敵陣=敵城を急襲して一挙に攻略することは断念せざるを得ない。陣地の城塞化が進めば進むほど、互いに弓矢や投石機を使った遠距離戦を志向するようになった。
 第一次世界大戦において、両陣営の首脳部・国民が戦争の早期終結を信じていたにもかかわらず、塹壕戦によって戦争が長期化したことはよく知られている。応仁の乱においても、防御側優位の状況が生じた結果、戦線が膠着したのである。(109頁)

 防御重視の戦略を取ることが多かったために、戦いが長期化したというのが戦術面での一つの要因であったようだ。こうした状況でゲリラ戦が有効となったために誕生したのが足軽である。兵力・兵糧の俸給を阻害するための大事な手段として、素早く動ける足軽という存在が生まれたという指摘は興味深い。



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