ここまでのシリーズでローマ人の寛容さに感銘を受けてきた。なぜ、寛容さを重視してきたのか。その理由は、単に倫理的なものではなく、自国に内包する階級同士の不満や違和感を軽減するためのものでもあったようだ。
敗戦の責任者であったとして罰したりすれば、災いの源になりかねないのである。罰された者が貴族ならば、貴族階級の不満を呼ばずには置かず、反対に平民であっても、罰されたのは平民出身であったからだと、平民全体が思いこむのは眼に見えている。責任の追及とは、客観的で誰をも納得させうる基準を、なかなかもてないものだからだ。それでローマ人は、敗北の責任は誰に対しても問わない、と決めたのであった。(73頁)
私たちが抱くアイデンティティからすると、自分と近いと思われる人に対して共感を抱くことは致し方ないことなのであろう。となると、自身と同じ階級出身者に親しみを感じることは否定しがたいものがあるのではないか。
私たちの本性に近い感覚がもたらすものが階級間の対立である。これを、敗北の責任を問わないという政治ポリシーに活かしていたのだから、ローマという国家の偉大さがよくわかる。「格差」という言葉が流行して定着し、多様性が重視される現代社会において、ローマの寛容という叡智を活かすべき点があるのではないか。
国の危機には多くの国で国論が分裂するが、ローマではそれは起らなかった。これが、ハンニバルに対して徹底して敗北した後でも残った、ローマの真の強さである。(151~153頁)
寛容がもたらす国家の強さが、大きな国家的な挫折の後に現れてくる。失敗や挫折を経験しない組織はないだろう。しかし、そこで踏ん張り、復活できるかどうかが、組織の力なのではないか。
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