唯一の「正しい」事実が積み重なって「正しい」歴史が創られるという考え方は虚構に過ぎない。
卑近な例ではあるが、私の小学生時代には、源頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年に鎌倉幕府が開かれたと教科書で学んだ。「いい国作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせを覚えている方も多いだろう。しかし、現在では諸国に守護・地頭の設置を後白河法皇から認められた1185年が鎌倉幕府成立年としてほとんどの教科書で記述されていると聞く。
さらには、1185年を鎌倉幕府の成立年としているのは現時点での最有力説にすぎず、他にも諸説ある。誤解を恐れずに言えば、歴史的事実とは複数存在するものであり、その時代における権力機構が正史として同定したものが、もっともらしい「歴史」として存在するにすぎない。
では、歴史家の人々は何を持って歴史を語っているのか。どのようなスタンスで歴史を論じているのか。さらには、私たちはそうした歴史の著作から何をどのように学べるのか。
わたくしが安吾さんから教わったのは、歴史はどういうふうに読めばいいのかということ。ある一つの事実があっても、その事実がすべてではないんですね。必ずそれに反対するような史実が出てくるに違いない。史料が隠されているに違いない。出てきたときには両方を並べてみて、その間はどうやったらつながるのか、よおく考えてみろ……。まずは常識的な、合理的なものの見方を中心として考え、そしてあとは推理を働かせるんだ……。要するに探偵をしろというんです。歴史探偵はここから始まりました(笑)。(20~21頁)
歴史とは、反証可能性に開かれた仮説に基づいて述べられるべきものなのではないか。徒に凝り固まった捉え方で歴史を述べようとすることは、その基づく内容がどのようなものであれ、独善的なものになりがちだ。歯切れがよく、思想傾向の近い人々には受け入れられても、開かれた対話には繋がらず、考えを深めたり、他者の気づきを促すきっかけにはならない。
そうではなく、謙虚に事実と向き合い、対立する事象をじっくりと観察し、耳を傾けること。そうすることで、仮説を紡ぎ出し、対話によって理解を深めたり、対立する考え方を持つ人々同士とがすり合わせる機会を見出すことができるのではないだろうか。
【第866回】『ノモンハンの夏』(半藤一利、文藝春秋社、2001年)
【第46回】『昭和史1926−1945』(半藤一利、平凡社、2009年)
【第47回】『昭和史1945−1989』(半藤一利、平凡社、2009年)
【第163回】『幕末史』(半藤一利、新潮社、2012年)
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