難しい。集中しながら読まないと理解できないと思いながらも集中力が持続しない。正直、理解できたとは言い難い。
しかし、である。どこかいい意味で引っかかる感じがあり、魅力を感じる。もう一度読み直したいと思える不思議な一冊だ。
現代の現象学批判は、現象学を、「客観認識」「厳密な認識」の基礎づけの学、とみなしている。つまり、現象学は、絶対的に正しい「客観認識」あるいは「真理」の基礎づけの学である、というのだ。だが、これは明白な誤解である。わたしの考えでは、現象学の主張は、むしろ、「絶対的な客観認識」や「真理」は存在しえないが、「妥当な認識」(つまり普遍的な認識)は存在しうる、という点にある。(6~7頁)
現象学への批判があることは理解していた。その批判の内容と、批判への反論としての現象学の可能性について端的に触れた箇所である。リアリティにこだわろうとしたフッサールの現象学にかけた想いが現れているような気がする。
「現象学的還元」は、まず客観が存在するという「措定」、つまり前提を中止する。そしてすべてを自分の「意識体験」に「還元」する。すると、世界の存在のすべては、自分の「意識」に生じている”表象”である、ということになる。
この「意識表象」を自分で内省し、そこでいかに「世界」が「構成」されているかを記述する。これが一般的にいわれている「現象学的還元」の方法の概要である(「事象に帰れ」とは、「内在意識」ですべてを考えよ、ということだ)。(21頁)
頭がこんがらがりそうになるが、現象学の本質を解説しようとしている箇所であることは理解できるし、理解の萌芽が現れているようにも思える。
フッサールの「アプリオリ」は、<内在意識>の内省によって取り出せる意味性としての「絶対的所与性」のこと。たとえば、事物の知覚は、必ず「色彩」や「形状」をふくんでいる、といった「意味性」。これこそ「アプリオリ」の概念の原義であって、カントの「カテゴリー」の概念も、この本来的な「アプリオリ」なものの洞察を基礎としてはじめて成立するのだ、とフッサールはいっている。(132頁)
ここも難しいがアプリオリについてカントが意味したものとフッサールが意味したものとの相違が現れている。両者の違いを意識しながら、改めて読む際に理解したいと思う。
【第769回】『福岡伸一、西田哲学を読む』(池田善昭・福岡伸一、明石書店、2017年)