2019年2月24日日曜日

【第933回】『超解読!はじめてのフッサール『現象学の理念』』(竹田青嗣、講談社、2012年)


 難しい。集中しながら読まないと理解できないと思いながらも集中力が持続しない。正直、理解できたとは言い難い。

 しかし、である。どこかいい意味で引っかかる感じがあり、魅力を感じる。もう一度読み直したいと思える不思議な一冊だ。

 現代の現象学批判は、現象学を、「客観認識」「厳密な認識」の基礎づけの学、とみなしている。つまり、現象学は、絶対的に正しい「客観認識」あるいは「真理」の基礎づけの学である、というのだ。だが、これは明白な誤解である。わたしの考えでは、現象学の主張は、むしろ、「絶対的な客観認識」や「真理」は存在しえないが、「妥当な認識」(つまり普遍的な認識)は存在しうる、という点にある。(6~7頁)

 現象学への批判があることは理解していた。その批判の内容と、批判への反論としての現象学の可能性について端的に触れた箇所である。リアリティにこだわろうとしたフッサールの現象学にかけた想いが現れているような気がする。

 「現象学的還元」は、まず客観が存在するという「措定」、つまり前提を中止する。そしてすべてを自分の「意識体験」に「還元」する。すると、世界の存在のすべては、自分の「意識」に生じている”表象”である、ということになる。
 この「意識表象」を自分で内省し、そこでいかに「世界」が「構成」されているかを記述する。これが一般的にいわれている「現象学的還元」の方法の概要である(「事象に帰れ」とは、「内在意識」ですべてを考えよ、ということだ)。(21頁)

 頭がこんがらがりそうになるが、現象学の本質を解説しようとしている箇所であることは理解できるし、理解の萌芽が現れているようにも思える。

 フッサールの「アプリオリ」は、<内在意識>の内省によって取り出せる意味性としての「絶対的所与性」のこと。たとえば、事物の知覚は、必ず「色彩」や「形状」をふくんでいる、といった「意味性」。これこそ「アプリオリ」の概念の原義であって、カントの「カテゴリー」の概念も、この本来的な「アプリオリ」なものの洞察を基礎としてはじめて成立するのだ、とフッサールはいっている。(132頁)

 ここも難しいがアプリオリについてカントが意味したものとフッサールが意味したものとの相違が現れている。両者の違いを意識しながら、改めて読む際に理解したいと思う。
  
【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)
【第769回】『福岡伸一、西田哲学を読む』(池田善昭・福岡伸一、明石書店、2017年)

2019年2月23日土曜日

【第932回】『新版 精神分析入門(下)』(フロイト、安田徳太郎・安田一郎訳、角川書店、2012年)


 上巻で展開された「間違い」および「夢診断」に続いて、下巻では「神経症」が扱われる。相変わらず一読して理解しづらい文体ではある。しかしながら、一通り読み進めることでフロイトが何を言いたかったのかに触れることができるだろう。

 患者は思い出す代わりに、いわゆる「転移」によって、医者と治療に抵抗する上に役立つような態度と感情とを実生活から借りてきて、それをくり返す。患者が男性なら、彼はきまってこの材料を自分と父親との関係から借りてきて、父親の地位へ医者を置く。そして人格の独立と判断の独立とを達成しようという努力や、彼の第一の目的である父と同等になりたい、父を圧倒したいという功名心や、感謝の念という重荷を人生で二度も背負わなければならないとは不愉快だという感情から、患者は抵抗を作り上げる。(73頁)

 神経症の患者が医者に対して示す抵抗について書かれているこの箇所は、飛躍を恐れずにいえば、相談する側とされる側との一般的な関係に置き換えて読んでみると面白い。相談する側は、自身が主体的に相談している場合であっても、都合が悪い状況になると相談相手に投影を行うものではないか。

 相談をするという行為によって、相談する人は相談される人より一段低く自身を見るようになるとシャインは『問いかける技術』で書いていた。そのような状況に対する潜在的な違和感が、相手の言動に敏感になり、相容れないもしくは受け入れたくない状況に直面すると抵抗として現れるということなのではないか。

 しかし抵抗というものを否定的に捉える必要はないとフロイトは続けて述べる。

 この種の抵抗を一方的に非難してはならない。それは患者の過去の生活のいちばん重要な材料をたくさん含んでいる。そしてもし私たちがこの抵抗を正しい方向に向けるたくみな術を知っていれば、この抵抗こそ、分析のもっともすぐれた足場になることを、あとではっきり教えられるだろう。注目に値するのは、この材料は最初はつねに抵抗に役立っているし、また治療に敵対するような仮面をかぶってあらわれてくることである。(74頁)

 抵抗するということは、そこに相談者が大事にしているものが潜んでいるからということであろうか。相談者からの抵抗を受けると、カウンセラーでない普通の人間である私たちは戸惑ってしまう。

 しかし焦らずに、泰然とその抵抗を受け止めること。受け入れた上で対話を続けることが求められているのかもしれない。

【第870回】『夜と霧(新版)』(V・E・フランクル、池田香代子訳、みすず書房、2002年)
【第864回】『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健、ダイヤモンド社、2013年)

2019年2月17日日曜日

【第931回】『新版 精神分析入門(上)』(フロイト、安田徳太郎・安田一郎訳、角川書店、2012年)


 『組織開発の探究』を読み、フッサールとともに読み直したいと思ったのがフロイト。ただし、難解な印象が強いので入門的に読めるものはないかと探してたどり着いたのが本書である。

 講義を文字にそのまま起こしているからか、しっくりと入ってこない部分もありとっつきにくい。とはいえ書かれている内容は決して難しくはないので筋は理解できる。原著はもっとわかりづらいのであろうから、翻訳者の方々の努力には頭がさがる思いだ。

 間違いは、意味と意向が認められる心的行為であることを知ったばかりでなく、また間違いは二つの相異なった意向の干渉からできたものだと知ったばかりではなく、なおその他に、この二つの意向の一つが他の意向の妨害者としてあらわれるためには、その意向はある抑制をうけたに違いないということを知った。(中略)間違いは妥協の産物である。間違いは二つの意向のうちのどちらかを半分成功させ、半分失敗さすことを意味している。おびやかされた意向は全部抑制されないしーーある場合をのぞいてーー全部発現されない。(85頁)

 誤った言動を取ってしまったり何かを失念してしまうことは日常的によく起こることである。その背景には私たちの潜在意識が関与しているのではないかという仮説を著者は提示している。

 同意できる部分もあれば、同意しづらい部分もある。つまらない言い方をすればケースバイケースということなのかもしれないが、何か間違ったことをしてしまった時に、意識を深掘りすると何かが見えることもあるのかもしれない。このように柔軟に捉えれば面白い仮説なのではないだろうか。

 間違いに関する探究から、著者は有名な夢診断へと向かう。

 精神生活にはまったく気づかない、非常に長い間まったく気づかない、いやおそらく一度も意識にのぼらなかった過程、あるいは傾向があると仮定する準備ができ上がった。だから無意識ということばは、一つの新しい意味をもつことになる。「そのとき」とか「一時的」とかいうつけたしは、無意識の本質から消えてしまう。無意識ということばは、単に「そのとき潜伏していた」という意味でなしに、永久に無意識的な、という意味をもってもよいことになる。(197頁)

 無意識的に何かをするという場合の無意識は刹那的な感じがする。表面に現れる無意識は一時的であるかもしれないが、その本質は半永久的に貯蔵された無意識の記憶にあるのではないかというのが著者の仮説的な提示であろう。

 エディプスコンプレクスや夢判断にはまだ違和感があるが、無意識が半永久的に私たちの顕在化された言動に影響を与えるということは、面白い仮説であるように思える。

【第864回】『嫌われる勇気』(岸見一郎・古賀史健、ダイヤモンド社、2013年)
【第870回】『夜と霧(新版)』(V・E・フランクル、池田香代子訳、みすず書房、2002年)

2019年2月16日土曜日

【第930回】『論語 増補版』(加地伸行、講談社、2009年)


 論語の翻訳書といえば金谷治氏の一択だと思っていたが、本書はもう一冊家に置きたくなる一冊である。訳および著者の踏み込んだ解釈も素晴らしい。しかし、もっとも注目すべきは、巻末に「手がかり索引」があり、ある漢字がどこで使われているかを検索することができる点ではないだろうか。

 この機能によって、気になる言葉を足掛かりにどこでどのような意味合いで用いられているかを比較・検討することができる。これはぜひ持っておきたいと思える要素である。

 今回は、一通り読んだ後に、「学」という言葉に注目して辞書のように読んでみた。

 子曰く、君子重からざれば、則ち威あらず。学びても則ち固ならず。忠信を主とし、己に如かざる者を友とすること無かれ。過ちては則ち改むるに憚ること勿れ。(学而第一・八)

 「学びても則ち固ならず。忠信を主とし」の部分を「学問をしても堅固ではない。このように質の充実つまりはまごころを核とすることだ」(24頁)と訳しているところが考えさせられる。ただ何かを学習するのではなく、まごころを大事にして他者にも当たるということが大事なのであろう。

 子曰く、君子は博く文を学び、之を約するに礼を以てせば、亦以て畔かざる可きか(雍也第六・二七)

 著者は君子を教養人として一貫して訳している。その上で「まず広く知識を学習し、次いでそれらを帰納してゆく」(140頁)という順番を重視し、その際に「礼に基づく」(140頁)ならば間違わないとしている。何かを学ぶ時に噛み締めたい至言である。

【第92回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)
【第340回】『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)


2019年2月10日日曜日

【第929回】『女性の視点で見直す人材育成』(中原淳/トーマツイノベーション、ダイヤモンド社、2018年)


 「はじめに」で著者が述べている通り、本書は女性のためだけの本ではなく、人財育成を職場ですすめるためのガイドブックであると感じた。著者が他の書籍、特に『駆け出しマネジャーの成長論』『職場学習論』『フィードバック入門』で述べているポイントを、女性ワーカーを対象とした統計分析の結果に即して概説している。著者の他の書籍のポイントを一冊でカジュアルに読めるという意味でもお得感がありそうだ。

 「「誰もが働きやすい職場をつくること」ことが、人や組織の成長を促すという考え方」」(62頁)に基づいて編まれた本書は、私たちが企業組織において直面する課題を意識しながら読める。

 職場をつくるためには、個人を育てるだけではなく職場を育むことも必要だ。そうした意味では「人が育つ職場(環境)をつくっていくことこそが究極の人材開発である」(62頁)という著者の考え方に納得できるのではないだろうか。

 こうした考え方に即した本書において、女性ワーカーを対象とした統計分析から得られたポイントとして特に以下の二点が勉強になった。

 女性活躍推進のカギは、長時間労働の見直しなどをはじめとした「働き方の見直し」なのです。(81頁)

 残業しなければ出世できないと感じられる職場においては、労働時間に制約のある方々にとってより上位の職制を担おうとする意欲を下げてしまう。これは女性に限ったものではなく、育児を行う男性社員、親の介護を行う社員など、多様な人々に影響を与えるものである。

 この事象は労働時間だけではなく働く場所の制約にも関連する。そのため、働き方をどのように捉え、多様な働き方をどのように認め、多様な人々との相互理解をどのように促すか、ということが「働き方の見直し」には含まれるのであろう。このように考えれば、人財を開発するだけではなく職場を開発することも焦点に当たっていることがお分かりいただけるだろう。

 二つ目は「リーダー初期の成功が、マネジャー期の成果を規定する」(111頁)という指摘である。本書におけるリーダーとは、労務管理やパフォーマンス管理の対象ではないが業務上の指導や指示を行うメンバーを持つ役割を担う職制を指している。

 家庭やライフイベントの多様性に富んだ女性に現れるデータであるかもしれないが、これは女性に限らないと言えるかもしれない。つまり、リーダー期において擬似マネジメント行動を適切に学ぶことができて成功体験を踏められれば、マネジャーになった際にその経験を活用することができると考えられる。

【第901回】『組織開発の探究』(中原淳・中村和彦、ダイヤモンド社、2018年)
【第862回】『研修開発入門「研修転移」の理論と実践』(中原淳・島村公俊・鈴木英智佳・関根雅泰、ダイヤモンド社、2018年)
【第727回】『人材開発研究大全』<第1部 組織参入前の人材開発>(中原淳編著、東京大学出版会、2017年)

2019年2月9日土曜日

【第928回】『ビジネスリーダーのための老子道徳経講義』(田口佳史、致知出版社、2017年)


 最近は続けて論語および論語の解説書を読んできた。すると、無性に老子が読みたくなる。不思議なもので、バランスを取りたくなるのか、視野が狭くなるような気がするのが嫌なのか。我がことながら面白い。

 全ての物(万物)は、そもそも宇宙の根源「道」に住んでいる。
 ある日その故郷を出てこの世に生まれ出る。いわば旅行に出るのだ。
 人生という旅は「道」から出てそのまゝ遠ざかる。やがて折り返し地点がくる。そこで折り返して、今度は「道」に向って進んで行く。
 やがてまた「道」に入って帰る。それをこの世では死という。
 何だ、と思った。死ぬとは故郷の母の元に帰ることなんだ。この世に未練はあるが、故郷に帰るんだから、そんなに悪い事ではない。(2頁)

 死の危険に瀕した著者が老子を読んで会得した死生観である。

 老子を読んで死について考えさせられるということはこれまでなかったので意外な感を持った。しかしそれは、私自身が死を考える状況になかったからそのように読めなかっただけなのかもしれない。

 自分に即した読み方ができるのが、老子の古典たる所以なのではないか。

 もう一つ気に入った箇所がある。聖徳第三十二「朴は小なりと雖も天下敢て臣とせず。」の解説として道について述べられた箇所である。

 しかし敢えて名付ければ、「朴」と名付ければ、「朴」と呼ぶのが良いだろう。朴とは樸、切り出したばかりで何の手も施していない状態の木材だ。これから何が生み出されるのか。計り知れない可能性に充ち溢れている。人間でいえば、そうした人は、どんなに低い身分でも、誰も自分の使用人にして好き勝手に使うことが出来ないものだ。(143頁)

 老子における道は解説がないと理解していた。しかし著者は、道を形容する言葉として朴を紹介している。可能性に満ちた言葉であり、道をイメージする上で適した言葉ではないかと思った。

【第187回】『老子』(金谷治、講談社、1997年)
【第841回】『求めない』【2回目】(加島祥造、小学館、2007年)
【第608回】『老荘思想がよくわかる本』(金谷治、講談社、2012年)

2019年2月3日日曜日

【第927回】『変調「日本の古典」講義』(内田樹・安田登、祥伝社、2017年)


 身体との対話を大事にするお二人の対話が、身体に関する話にならないはずがない。頭で考えすぎる現代の私たちにとって、身体を起点にして対話される二人の碩学の対話は、どこか私たちの潜在的意識に語りかける内容が含まれているようにも思える。懐かしくも新しい不思議な感覚を覚えながら読み進めた。

 特に興味深く感じたのは、孔子が重要視した六芸に関する内田さんの指摘である。

 「射」は剣や槍を使う技術と大きな違いがあります。それは「的は向こうからは襲ってこない」ということです。ですから、弓の技術は「こう攻撃されたら、どう反応するか?」という反応の枠組みでは語られることがない。そうではなくて、自分の全身をモニターする。どこかに詰まりがないか、こわばりがないか、痛みがないか、緩みがないか、あるいは見落とされた空白がないか。それを全員の内外について点検する。その点検のためには、どれほど時間をかけても構わない。それが「射」という技術が要求するタスクの本質です。自分の身体を一種の対象と見立てて、それを丁寧に観察する。こう言ってよければ、「自分の身体という他者」を観察し、それを調整する技術です。(86頁)

 私たちは、スポーツの中に「道」を見出し、ビジネスの中にも「道」を読み取ろうとする傾向がある。その起源は六芸にあるのではないかとも思えてくる。


2019年2月2日土曜日

【第926回】『現代人の論語』(呉智英、文藝春秋社、2003年)


 本書は、論語を現代の視点で読み解くとどのように読めるかということに焦点を絞っている。古典は、時代が変わり、環境が変わっても読み継がれるものである。しかしながら、初学者にとっては、ある程度の解釈があったほうがハードルが低いのが実情だろう。著者は、そうした私たちにとって最適な入門書の一つに数えられるだろう。

 論語の冒頭である「学而時習之」を解説した第三講を引用してみる。

 多くの人は、「学んで、これを時々復習する」と訳す。正しくは「時々」ではなく、「時を選んで」「適当な時期に」である。(20頁)

 易経でも「時中」という概念を用いて、「時に中る」として適当な時を選ぶことを重んじる。これに通ずる部分がありそうだ。

 私たちは自分たちの学生時代の経験から「時に習う」と聞くと「時々復習する」と解釈してしまう。しかし孔子は、学ぶ上で適当な時期があり、そのタイミングを捉えて学ぶことの重要性を説いている。したがって、何かをただ漫然と学ぶのではなく、その文脈を考えることが重要なのではないか。

 よいか、「達」とは、質朴実直で正義を愛し、人の言葉を洞察し、また人の表情も見抜き、思慮深く、謙虚でもあり、そうであればこそ、公務にも必ず熟達し、私生活にも必ず手抜かりがない、これが「達」だ。ところが、「聞」は、上べは仁らしく装っていても実行がともなわず、しかも、それでいいと思って自らを疑おうともしない、そうしていれば見かけはいいから、公務に就いても聞こえはよく、私生活でも聞こえはいい、これが「聞」なのだ。(154頁)

 熟達について子張に問われた孔子は、他者からの評判がよくなるという意味合いの「聞」と対比して上のように述べたと著者は解釈している。

 私たちは人事評価に注意が向き、日頃はFacebookのいいね!に一喜一憂するなど、評価を気にしすぎるのかもしれない。そうした安易な他者目線に意識を向けるのではなく、じっくりと熟達することを目指すことが、翻って他者からの信頼に繋がるのではないだろうか。噛み締めたい一言である。

【第924回】『身体感覚で『論語』を読みなおす。』(安田登、新潮社、2018年)
【第693回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)【4回目】
【第340回】『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)