本書を通読するのは二度目である。はじめて読んだのは大学二年の時に授業の課題としてであったから、実に十二年ぶりである。再読することはよくあるが、これだけ長い期間を置いて読み直すのは珍しい。あまりに内容を忘れていて驚いたのではあるが、読み直して良かったと思える一冊である。
文明論において、進化史観に対して生態史観という考え方を新たに提示したことが本書の画期的な点であろう。従来の進化史観では、歴史とは一つの目的地へと向けた一直線のように考えていた。本書の元となる論考を著者が発表していた時代背景を鑑みれば、その典型として著者がイメージしていたものはマルクス主義であろう。
運命論的な意味合いを有する進化史観に対して、生態史観では多様な目的地があることが当たり前のものとして許容される。ある地点への必然的な一本道としての進化という進化史観の発想とは異なり、主体と環境との相互作用が変化の基本となる。相互作用の蓄積の結果として従前の生活様式では収まらなくなった時点で次の様式に遷移する、という主体と環境系の自己運動モデルが生態史観のアイディアの源泉である。
こうした考え方をもとにして、著者はユーラシア大陸を二つの地域に大別してそれぞれの特徴を述べている。第一地域が属するのは、大陸の最西端と最東端、すなわち西ヨーロッパと日本である。第二地域はそれ以外の地域であり、東は中国から西はトルコ辺りまである。
それぞれの地域を分けるいくつかの特徴について、著者の著述をもとにまとめてみよう。
一つめの点として、近代へと至る政治的革命の以前の政治体制として封建制を持っていたかどうかという点である。第一地域では封建制を持っていたが故に、ブルジョワジーによる革命が可能となり、その結果として革命後の政権をブルジョワジーが担うことになった。それに対して第二地域ではいずれも安定的な封建制を持っていたことがないという共通項がある。その結果として、専制君主による支配、とりわけ植民地支配という形式が取られた点が特徴的である。
二つめに、聖と俗の権力の分離についての差異が挙げられている。第一地域では聖の権力と俗の権力の分離が早い段階で起こった。近代国民国家の前提とも言われる政教分離である。他方で第ニ地域では精神界の支配者と俗界の支配者とが後世まで続いており、現在でも続いている国が少なくない。
三番目の点として、政治的実践に携わる知識人の有無の差がある。第一地域には、政治的実践に携わらない、すなわち政権や行政に関与しない「在野」の知識人が豊富にいる。そうした知識人の一部がマスメディアのメンバーを構成することで批評的な知識人が表れることとなる。一方、第二地域では政治的意識と政治的実践とが統一的に両立している。その極端なケースとしては行政にとって不都合な事実や主張を述べようとする人物を弾圧しようとする。知識をコントロールしようとするメカニズムが生じるのである。
第一地域と第二地域の間には東ヨーロッパと東南アジアが存在する。第一次大戦は東ヨーロッパを、第二次大戦は東南アジアを、それぞれ植民地支配から解放したという側面があるという著者の考え方には留意する必要がある。こうした考え方は、解放することを正義とみなして戦争へと駆り立てる危険な考え方にも繋がり得るので利用される文脈に注意する必要はあるが、一考の余地はあるだろう。