2018年10月28日日曜日

【第898回】『生麦事件(下)』(吉村昭、新潮社、2002年)


 薩英戦争へと至る下巻の前半は緊張感に満ちた展開である。開戦へと至るか否かの交渉が行われる鹿児島湾は、押し寄せるイギリス艦艇によって、穏やかな海から荒れた海へと変わる。こうした情景描写が、小説家の腕の見せ所なのではないか。

 凪いでいた海は徐ろに様相を変え、岸に押し寄せる波の音も高くなった。艦隊の灯火は見えず、海上は濃い闇にとざされていた。(44頁)

 高まる波が収まることはなく、薩英戦争は勃発し、痛み分けのような形で終了する。薩摩藩が賠償金を支払う形式とはいえ、なぜ、イギリスは第二・第三の艦隊を派遣して植民地にするような政策を取らなかったのか。アヘン戦争での同様の政策を考えれば、そうした政策を取ることも考えられたはずだ。

 著者はその理由として、戦後にニューヨークタイムズに掲載された社説で、イギリス艦隊の薩摩藩での行為が残虐な行為として非難されたことを挙げられている。

 この社説は、アメリカ国内で強い支持を得たが、イギリス国内でもイギリス艦隊の鹿児島市街を焦土とした行為を批判する声がたかまった。(94頁)

 民主主義国家として、イギリスの対外政策は国内世論の影響を受けたわけである。当時の日本を取り巻く他国の情勢は、幕末の日本の勢力図に大きな影響を与えたようだ。

 鳥羽伏見以降の薩長軍と旧幕府軍との争いは、武器の差が明暗を分けたと言われる。では、なぜ武器が薩長に流れたのか。一つは、イギリスと戦った薩摩と、下関で四カ国と戦った長州とが、海外の武器の優越性を理解していたから、という需要サイドで説明できる。他方、供給サイドでは1961年から1965年まで続いた南北戦争が挙げられる。

 南北戦争はその年の四月に終結し、不要になった多量の銃が上海をへて長崎に流入していて、短期間にグラバーはそれらの銃をかき集め、井上、伊藤との間で売買契約をむすんだ。量はおびただしく、ミニエー銃四千三百挺、ゲベール銃三千挺で、代価総額九万二千四百両であった。長州藩も、紙、塩、蠟を専売品とし、倹約を徹底して財源の蓄積につとめていた。(268頁)

 国際的な軍需産業と戦争との相補関係の一端を担ったと考えると嫌な思いがするが、日本史と世界史とを比べて考えてみることの重要性を改めて考えさせられた。

【第881回】『桜田門外ノ変(上)』(吉村昭、新潮社、1995年)
【第882回】『桜田門外ノ変(下)』(吉村昭、新潮社、1995年)

2018年10月27日土曜日

【第897回】『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』(村上春樹、新潮社、2017年)


 第2部の中盤から、ザ・ハルキワールドという感じの展開。もちろん、いい意味で用いている。ハルキストたちの中には、初期の作品が村上春樹の作品であり、最近のものは今ひとつだという意見もあるようだが、個人的には最近のものの方が入りこみやすい。『1Q84』も良かったし、本作も読んでいて心地よかった。

 心地よいのは物語と文体だけではない。ところどころでハッとさせられる文章がある。とりわけ以下の箇所はお気に入りの一文である。

「あなたには望んでも手に入らないものを望むだけの力があります。でも私はこの人生において、望めば手に入るものしか望むことができなかった」(269頁)

 すごいなと思ったのは、50節と51節の冒頭部分。本作は書き下ろしであるにも関わらず、その前節の最後の一文と冒頭の一文とまったく同じにしている。緊迫する場面の臨場感が、新聞小説のような手法によってその効果が上げられているのではないか。

 本作の最後には<第2部終わり>とある。作品自体はこれで終了しても違和感がない、というか終わったものだと私は思っているが、果たして第3部が発表されることはあるのだろうか。

【第896回】『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』(村上春樹、新潮社、2017年)
【第796回】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(村上春樹、文藝春秋、2013年)
【第791回】『1Q84 BOOK1』(村上春樹、新潮社、2009年)
【第792回】『1Q84 BOOK2』(村上春樹、新潮社、2009年)
【第793回】『1Q84 BOOK3』(村上春樹、新潮社、2010年)
【第782回】『職業としての小説家』(村上春樹、スイッチ・パブリッシング、2015年)

2018年10月21日日曜日

【第896回】『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』(村上春樹、新潮社、2017年)


 漱石の作品は漱石だと分かるし、三島の作品も三島の手になるものだと分かる。それらと同様に、村上春樹の作品は、著者名を隠されて読んでも分かる、と思う。それほど彼の文体は確立されたものであり、他の現代小説家とは屹立した存在であると言えるのではないだろうか。

 穏やかで一見してスピーディーではないにも関わらず、多様な登場人物が突如として発散的にエピソードを撒き散らす。第1部を読んでいる現時点では、どのように収束されるのか分からないが、複数の謎がきっと最終的にはどこかに集結点を描き出すに違いないと、どこか安心しながら読み進められる。

 予定調和の感覚を持ちながらも、物語としての不調和性の両立、といったところであろうか。

 大事なのは無から何かを創りあげることではあらない。諸君のやるべきはむしろ、今そこにあるものの中から、正しいものを見つけ出すことなのだ(361頁)

 まず誤植ではないことを述べておく。これは、題名の一部にもなっている「騎士団長」という(現時点では)不可思議なキャラクターの台詞なので独特の妙な言い回しになっているのである。

 しかし、こうした変な言葉であるからであろうか、よりいっそう重みのある言葉であるように思えるから不思議なものである。

【第791回】『1Q84 BOOK1』(村上春樹、新潮社、2009年)
【第792回】『1Q84 BOOK2』(村上春樹、新潮社、2009年)
【第793回】『1Q84 BOOK3』(村上春樹、新潮社、2010年)
【第782回】『職業としての小説家』(村上春樹、スイッチ・パブリッシング、2015年)
【第796回】『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(村上春樹、文藝春秋、2013年)

2018年10月20日土曜日

【第895回】『走れメロス』(太宰治、青空文庫、1940年)


 数ある太宰作品の中でも名作の誉が高い本作。NHKEテレの「100分で名著」で取り上げられているのを見て、読み直したくなった。同番組では、小学生が夏休みの読書感想文として取り組む本の一冊として特集されたものであったが、大人が読んでも問題はないだろう。

 改めて、信頼とは何かを考えさせられる。他者を信じて頼るということは、他力に通じるものがあるのではないか。自力は、あくまで信頼を証明するための存在として描かれ、メロスにしてもセリヌンティウスにしても、お互いがお互いに委ね合うことで信頼関係が醸成されている。

 しかし、他者に委ねるということは、自身の意思を軽視するようでもあり、決してやさしいものではない。まして、他者に委ね続けるということはおそらく不可能であり、どれほど大事な他者であっても時に委ねることが揺らぐこともある。

 メロスの立場に立って考えれば、自身を信じてくれる親友の代わりに、自身が処刑されるために王様のもとに戻るという正義の行為を信じていても揺らぐことはいくつもある。

 たった一人の肉親である妹の結婚後の平和な生活を続けるために村に残ったとしても誰が非難できるだろうか。また、行く手を塞ぐ山賊との戦いと、濁流の渦巻く川を渡ることで疲れ果て、王様との約束の期限に遅れても仕方がないと言えるのではないだろうか。

 多くの人にとって正当化される誘惑や困難によって他者への委ねが一時的に途切れる瞬間があるのはしかたがないのであろう。信頼関係があるということは、一時的に途切れた状態から他者に絶対的に委ねる状態に戻せるかどうか、に表れるのではないか。

 揺らぎながらも他者に委ねる状態に戻り続けるメロスの言動にリアリティがあるからこそ、その崇高な信頼関係に感動をおぼえるのである。

【第502回】『人間失格』(太宰治、青空文庫、1948年)
【第524回】『斜陽』(太宰治、青空文庫、1950年)
【第501回】『パンドラの匣』(太宰治、青空文庫、1946年)

2018年10月14日日曜日

【第894回】『生麦事件(上)』(吉村昭、新潮社、2002年)


 薩摩藩の大名行列の邪魔をしたイギリス人が殺害されたことの意趣返しで薩英戦争が起こり、しかしその戦後対応でイギリスと薩摩藩が近づく契機となった事件。これが生麦事件として称される史実の後生的な評価であろう。

 この前半の表現からは、薩摩藩は当時尊王攘夷の機運一筋のような印象を受けるが、むしろ本書では、藩主の父であり実質的な実験者である島津久光の開明的な姿勢が描かれる。久光の前藩主である斉彬の頃から「藩主が藩士たちに、来航する外国船に決して敵意をいだくことなく、外国人にも穏やかに接するよう指示していた」(19頁)ようだ。

 したがって、久光の観点からすれば、大名行列を横切るという違法行為を働いた人物をルールに基づいて処罰しただけであり、その対象が外国人であったというだけに過ぎない。

 生麦村の事件については、家臣が外国人に斬りつけたのはやむを得ぬことと久光はその行為を是認していた。大名行列は、藩の威信をしめすもので、藩士たちは身なりを整え、定められた順序にしたがって整然とした列を組んで進む。それは儀式に似たもので、その行列を乱した者は打果してもよいという公法がある。日本に居住する外国人たちは、日本で生活するかぎり、その公法を十分に知っているべきであるが、殺傷された外国人たちは下馬することもなく、馬を行列の中に踏みこませるという非礼を働いた。それは断じて許されるべきではなく、斬りつけたことは当然と言える。(147~148頁)

 現代市民社会の感覚からすれば、「切り捨て御免」は、武士という当時の日本社会における特権階級に対する特権にも読み取れる。ただし、当時の武士階層のトップにいる藩主が「切り捨て御免」を所与のものとして捉えることも理解はできる。<日本>という内側の論理が、その論理が通用しない他国との接点で生じた事件なのであろう。

 生麦事件を機に、薩摩藩と幕府、薩摩藩とイギリス、幕府とイギリス、という三者間のギリギリの交渉が展開され、薩英戦争へと繋がる緊張が描かれる。そうした緊迫感のある展開に、以下のような美しい風景の描写が彩りをもたらしている。

 相変らず雨の気配はなく、藩邸はまばゆい陽光に晒されていた。(7頁)
 鹿児島湾の海面は、眩く輝いていた。(312頁)

【第881回】『桜田門外ノ変(上)』(吉村昭、新潮社、1995年)
【第882回】『桜田門外ノ変(下)』(吉村昭、新潮社、1995年)

2018年10月13日土曜日

【第893回】『アカギ(8〜36巻)』(福本伸行、竹書房、2018年)


 以前読んでいたコミックで続刊中のものは、連載終了後にまとめて読むようにしている。ために、時折思い出したように連載が終わっていないかをチェックしている。

 『アカギ』もそのような一冊である。ついに連載が終わり、コミックの最終巻が発売されたという情報を遅まきながら知り、漫画喫茶に二日間にかけて計六時間引きこもり、読み終えた。

 『アカギ』ファンのみには通じると思うが、8巻とはいわゆる鷲巣麻雀が始まる巻である。もちろん7巻までも当時は読んでいたが、今回は鷲巣麻雀の序盤をおさらいとして読み直して、最終巻まで読み進めた。(悪友と麻雀を打つと、白をツモるたびに「きたぜ、ぬるりと」と言い合っていた身としては市川戦も読み直したかったのであるが)

 主人公・赤木しげるが鷲巣巌と対峙し、自らの血液を賭けて鷲巣の全財産を奪うべく、命を賭してもなお冴え渡る赤木の闘牌に魅了される。六回の半荘に二十年以上も掛けながらも、スピーディーな展開はすごい。

 命を賭けた闘牌でありながらも、福本ファンの多くは、『天 天和通りの快男児』で年齢を重ねた赤木が登場することを知っている。したがって、死ぬことはないのだろうなという予定調和を予期しながら読み進めざるを得ない。

 となると、どのように著者は作品を終わらせるのか、に私たちの興味は向かう。まさかパラレル・ワールドだったことにして、赤木が死に迎えることもあるのかとまで考えた。

 ネット上では終わり方に否定的な意見も多いようであるが、上述したように結末における制約が大きい中では、綺麗な終わり方であり、個人的には嫌いではない。麻雀に負けながらも、勝負に徹して勝利を得た、という、赤木らしいリアリティのある勝負勘・人生観と言える。

【第824回】『アオアシ』【第1巻〜第12巻】(小林有吾、小学館、2015年〜)
【第82回】『スラムダンク(全31巻)』(井上雄彦、集英社、1991年〜1996年)

2018年10月8日月曜日

【第892回】『天狗争乱』(吉村昭、新潮社、1997年)


 桜田門外ノ変へと至る水戸藩内の門閥派と改革派の対立構造は著者の『桜田門外ノ変』に詳しい。同書における改革派が、事変後数年を経て尊攘派と受け継がれた。

 門閥派は、そうした尊攘派を「身分の低い尊攘派の者が急に鼻を高くして威張りちらすとして、蔑みの意味をこめて天狗派と呼ぶようになった」(33頁)という。これが天狗派もしくは天狗勢と呼ばれる水戸藩を中心とした急進的な尊攘派の一連の争乱へと繋がる。

 天狗勢の佇まいの清々しさを以前何かの書籍で読んでいて印象深かったのであるが、それは、後半における京への西上過程の行動のようだ。前半は、水戸藩内における門閥派との政治闘争に敗れての暴発的な決起、一部の隊による過剰な軍資金獲得のための町民への残虐行為など暗鬱とした展開が続く。

 武田耕雲斎をトップに据えて、京都へ西上して一橋慶喜に尊王攘夷を直訴することを最終目標に置いてから、規律が厳格に規定され、規律的な集団行動が取られるようになる。しかし、前半期における一部の悪行の印象を完全に払拭することは難しく、また尊王攘夷という思想に基づいた集団ということもポジティヴな印象には繋がらなかったようだ。

 尊王攘夷という一つの思想によってかたく団結した天狗勢は、きわめて不気味な存在に思えた。それに、下仁田、和田峠の戦いでもあきらかなように、天狗勢は、すぐれた作戦能力をもち、隊員の戦意は旺盛で、そのような類のないほどの戦闘集団の入京は脅威であった。(490頁)

 いつの時代でも、特定の宗教や人物を過剰に信奉する組織はカルト集団として警戒されるようだ。尊王攘夷は、当時は一般民衆の間でもそれなりに受け容れられていた考え方である。そうであっても警戒され、さらには天狗勢が慕っていた一橋慶喜も、彼らを京都に入れることのリスクと、幕府への忠誠を優先して天狗勢の入京を拒否する。

 徳川斉昭の息子にして改革派の精神的な拠り所であった一橋慶喜の拒絶により、天狗勢の行動はあっさりと終了する。潔いと形容するには、あまりにもの哀しい結末であった。

【第881回】『桜田門外ノ変(上)』(吉村昭、新潮社、1995年)
【第882回】『桜田門外ノ変(下)』(吉村昭、新潮社、1995年)

2018年10月7日日曜日

【第891回】『誰にもわかるハイデガー』(筒井康隆、河出書房新社、2018年)


 ハイデガーは難しい。否、正確には哲学者の書いたオリジナルの書籍は、サルトルも、フッサールも、フーコーも、私のような素人には難しい。だからこそ、本書のような優れた書き手による優れた解説書はありがたく、頭がさがる思いで読み進めた。

 本書ではハイデガーの代表的な著作の一冊である『存在と時間』についての解説が為されている。解説を書いている社会学者の大澤真幸氏も、「『存在と時間』の理解としてまことに正確である」(95頁)と太鼓判を押しているように安心して読み進めることができる。

 いつやってくるかわからない死を了解しようとして、人間は苦しんでいるんです。ですから、そういった死ぬという自分の存在を自分で引き受けて生きていく、その実存という存在のしかたですね。それが現存在です。(34頁)

 まず現存在というハイデガーが提唱する鍵概念について、生きるということと交えて解説が為せれる。尚、実存とは「人間の可能性」(35頁)と定義していることも併記しておく。

 では死とどのように向き合うのか。本来性の概念を用いながら著者は解説を以下のように試みている。

 本来性というのは死を見つめる、自分が生きているのに、いずれ死ななければならないのに生きているという苦しみ。その苦しみとか悲しさとかそういうものを生きていく上で、どれほどその生き方が苦悩や悲哀に満ちていてもそれを引き受けていくという生き方なんです。(43頁)

 自らの周りに起きる事象をプラスやマイナスで判断するのではなく、全てをありのままのものとして受け入れていくこと。これが生きる上での本来性であると著者は大胆に定義し、死から目を背けて対象を他に求める考え方を非本来性と定義して否定的に見ているのである。

 著者が述べるように本書はハイデガーに至るための入門書である。ハイデガーの著作にも改めて触れてみたいと思った。

【第419回】『今こそアーレントを読み直す』(仲正昌樹、講談社、2009年)

2018年10月6日土曜日

【第890回】『村上海賊の娘(四)』(和田竜、新潮社、2016年)


 一見して関連がなかったようなエピソードで描かれてきた人物たちが、一つの合戦の中で、見事に一つのストーリーとして紡ぎ出される。闘いの中でそれぞれの人生観を表出し、ある者は勝機を見出し、またある者は死ぬ。

 本書は、史実を丹念に調べて著されたものだそうだ。とはいえ、合戦を実際に観察して描いたものではないのであるから、点と点を結ぶ多くの伏線は著者の創作である。一つひとつの事実を基に、物語を描き出す見事な筆致に唸らさせられる。

「次郎を思っ切り阿呆に育てちゃってくれ」
 この一言で、道夢斎は敗戦を悟った。あの燃え盛る安宅で何が起きたかは分からぬが、無謀にも海賊王の軍勢に挑んだ我が息子が打ち取られたことだけは間違いない。
 それでも道夢斎は、哄笑していた。息子をこんな阿呆に育てたのは自分ではないか。孫もそうしろというのなら、お手の物だ。(294頁)

 主人公の敵役でありながらも、もう一人の主人公と言って良い七五三兵衛の最期のシーン。悲壮感はないが、感動的だから不思議だ。死に際してこれほど達観できるものなのであろうか。

【第886回】『村上海賊の娘(一)』(和田竜、新潮社、2016年)
【第887回】『村上海賊の娘(二)』(和田竜、新潮社、2016年)
【第889回】『村上海賊の娘(三)』(和田竜、新潮社、2016年)