薩英戦争へと至る下巻の前半は緊張感に満ちた展開である。開戦へと至るか否かの交渉が行われる鹿児島湾は、押し寄せるイギリス艦艇によって、穏やかな海から荒れた海へと変わる。こうした情景描写が、小説家の腕の見せ所なのではないか。
凪いでいた海は徐ろに様相を変え、岸に押し寄せる波の音も高くなった。艦隊の灯火は見えず、海上は濃い闇にとざされていた。(44頁)
高まる波が収まることはなく、薩英戦争は勃発し、痛み分けのような形で終了する。薩摩藩が賠償金を支払う形式とはいえ、なぜ、イギリスは第二・第三の艦隊を派遣して植民地にするような政策を取らなかったのか。アヘン戦争での同様の政策を考えれば、そうした政策を取ることも考えられたはずだ。
著者はその理由として、戦後にニューヨークタイムズに掲載された社説で、イギリス艦隊の薩摩藩での行為が残虐な行為として非難されたことを挙げられている。
この社説は、アメリカ国内で強い支持を得たが、イギリス国内でもイギリス艦隊の鹿児島市街を焦土とした行為を批判する声がたかまった。(94頁)
民主主義国家として、イギリスの対外政策は国内世論の影響を受けたわけである。当時の日本を取り巻く他国の情勢は、幕末の日本の勢力図に大きな影響を与えたようだ。
鳥羽伏見以降の薩長軍と旧幕府軍との争いは、武器の差が明暗を分けたと言われる。では、なぜ武器が薩長に流れたのか。一つは、イギリスと戦った薩摩と、下関で四カ国と戦った長州とが、海外の武器の優越性を理解していたから、という需要サイドで説明できる。他方、供給サイドでは1961年から1965年まで続いた南北戦争が挙げられる。
南北戦争はその年の四月に終結し、不要になった多量の銃が上海をへて長崎に流入していて、短期間にグラバーはそれらの銃をかき集め、井上、伊藤との間で売買契約をむすんだ。量はおびただしく、ミニエー銃四千三百挺、ゲベール銃三千挺で、代価総額九万二千四百両であった。長州藩も、紙、塩、蠟を専売品とし、倹約を徹底して財源の蓄積につとめていた。(268頁)
国際的な軍需産業と戦争との相補関係の一端を担ったと考えると嫌な思いがするが、日本史と世界史とを比べて考えてみることの重要性を改めて考えさせられた。
【第881回】『桜田門外ノ変(上)』(吉村昭、新潮社、1995年)
【第882回】『桜田門外ノ変(下)』(吉村昭、新潮社、1995年)