2014年12月29日月曜日

【第396回】『三国志(五)』(吉川英治、講談社、1989年)

 いわゆる赤壁の戦いへと至る過程と、その会戦の様子が丹念に描かれる本作。世紀の大戦の描写もさることながら、さらに円熟味を増すした劉備の人間性の描写もまた、読み応えがある。

「思うに、趙雲のごとき股肱の臣は、またとこの世で得られるものではない。それをこの一小児のために、危うく戦死させるところであった。一子はまた生むも得られるが、良き国将はまたと得がたい。……それにここは戦場である。凡児の泣き声はなおさら凡父の気を弱めていかん。故にほうり捨てたまでのことだ。諸将よ、わしの心を怪しんでくれるな」(49~50頁)

 敗戦の最中に家族とも散り散りになった劉備。その幼子を必死の思いで探し出して連れ帰ってきた趙雲を前にして、劉備は我が子を放り投げる。驚く周囲の家臣たちを前にして、劉備はこの台詞を吐いた。身震いするほど、感動する言葉を心の底から偽りなく言い切れるところが、劉備のリーダーシップの有り様であろう。彼の臣下たちは、命を投げ打ってでも劉備のために尽くそうとするだろう。

「末梢を論じ、枝葉をあげつらい、章句に拘泥して日を暮すは、世の腐れ儒者の所為。何で国を興し、民を安んずる大策を知ろう。漢の天子を創始した張良、陳平の輩といえども、かつて経典にくわしかったということは聞かぬ。不肖孔明もまた、区々たる筆硯のあいだ、白を論じ黒を評し、無用の翰墨と貴重の日を費やすようなことは、その任でない」(81頁)

 劉備が三顧の礼で迎え入れた孔明の言である。世から離れた場での生活を良しとせず、世に出て智恵を振るうことの意義を強弁するこの情景は、躍動感に溢れている。いたずらに知識や言説に耽溺して現場から遠い場所から批評をすることに意味はない。現場に生き、社会で貢献し続けたいものだ。



2014年12月28日日曜日

【第395回】『三国志(四)』(吉川英治、講談社、1989年)

 苦境に継ぐ苦境の連続で、曹操はおろか、孫権にも大きく遅れを取り、天下を取るなど夢のように遠い劉備。そうした中であっても、仁と義を重んじ、人として正しくあろうとする姿勢には思わず襟を正さざるを得ない。

「いけない。そんな不仁なことは自分にはできない。ーー思うてもみよ。人にその母を殺させて、その子を、自分の利に用いるなど、君たるもののすることか。たとい、玄徳が、この一事のため、亡ぶ日を招くとも、そんな不義なことは断じてできぬ」(281~282頁)

 苦難の中で劉備が出会い、乞いて軍師として迎え入れた徐庶。彼の智恵と策謀によって、曹操の軍隊に大勝し、他の武将からの信望も篤い中、彼の母の手によると称された手紙に因って曹操のもとに赴こうとする徐庶を、劉備は止めない。当然、曹操のもとに下ることは、優秀な軍師でありかつ自軍の内実をよく知悉している類い稀な存在を敵のもとに授けることを意味する。それでも、劉備への苦衷の心を持ちながら母への恩義に報いようとする彼を、劉備は止めようとしない。孝を重んじる行動を妨げることは、不仁であると捉えているからである。自分のことを考えず、相手を慮る徹底した君子たる行動が、その直後に孔明との出会いを導くのであるから、人生は面白い。

「ーーそうじゃ、自分のいる所ーーそれを明らかに知ることが、次へ踏みだす何より先の要意でなければならぬ。御身をこの地へ運んできたものは、御身自体が意志したものでもなく、また他人が努めたものでもない。大きな自然の力ーー時の流れにただよわされてきた一漂泊者に過ぎん。けれどお身の止った所には、天意か、偶然か、陽に会って開花を競わんとする陽春の気が鬱勃としておる。ここの土壌にひそむそういうものの生命力を、ご辺は目に見ぬか、鼻に嗅がぬか、血に感じられぬか」(318~319頁)

 あまりに有名な三顧の礼で孔明のもとを訪れる中で、劉備は、孔明と日頃付き合いのある様々な人と出会う。そうした中の一人に司馬徽がいる。ここで引用したのは、司馬徽が劉備に語った言葉である。自分自身が現在いる位置を知ること。それは自分の分を知ることでもあり、時代を知ることでもあり、多様な可能性を知ること、といったことを意味するのではないだろうか。


2014年12月27日土曜日

【第394回】『三国志(三)』(吉川英治、講談社、1989年)

 幾多の失敗や苦難を迎える劉備。そうした苦境において、リーダーはいかに構え、対応するのか。リーダーシップの教科書としても読める作品である。特に印象に残ったのは以下の二点である。

「ああ過った。ーー智者でさえ智に誇れば智に溺れるというものを、図にのった張飛ごときものの才策をうかと用いて」
 玄徳は臍を噛んだーー痛烈にいま悔いを眉ににじませているーーが彼はすぐその非を知った。
「わしは将だ。彼は部下。将器たるわしの不才が招いた過ちだ」(371~372頁)

 大成功を収めた後に大失敗を犯す張飛。温厚な劉備ですら怒りを抑えられない状況において、張飛へのいら立ちを最初は示している。しかし、その直後において、張飛の献策を受け容れた自分自身の至らなさへと意識を向け、深く反省を行なっている。戦の失敗は生き死にに関わるものであり、戦場での失敗を自分の責めに帰すことは、将兵からの信頼を失うことに繋がるだろう。そうした重たい責任を自分自身で受け容れられる度量の深さには、恐れ入るばかりである。

 玄徳の特長はその生真面目な態度にある。彼の言葉は至極平凡で、滔々の弁でもなく、なんらの機智もないが、ただけれんや駈引きがない。醇朴と真面目だけである。内心はともかく、人にはどうしてもそう見える。(444頁)

 まっすぐに、まじめに生きること。そうした心の有り様が、周囲に対する誠実な行動となって現れるのであろう。その結果として、他者から信頼を得られることが多くなるのではないだろうか。そうであるからこそ、先述したような失敗に対する責任の取り方に対して、周囲は、頼りない存在と捉えるのではなく、信頼できる存在として好もしく捉えるのであろう。


2014年12月23日火曜日

【第393回】『三国志(二)』(吉川英治、講談社、1989年)

 本巻でも、劉備の人格者としてのリーダーシップに目がいくばかりである。

 玄徳は、義の廃れた今、義を示すのは今だと思った。強いて暇を乞い、また、幕僚の趙雲を借りて、総勢五千人を率い、曹操の包囲を突破して、遂に徐州へ入城した。(162頁)

 子供の頃には理解できなかったのであるが、こうした劉備のあり方は論語的である。中国の方々が何を善と見做すのかは、物語のなかで時代を創る人々による論語的な態度や行動として描写されるシーンを読むことで理解できるのではないだろうか。

 涿県の一寒村から身を起して今日に至るまでも、よく節義を持して、風雲にのぞんでも功を急がず、悪名を流さず、いつも関羽や張飛に、「われわれの兄貴は、すこし時勢向きでない」と、歯がゆがられていたことが、今となってみると、遠い道を迂回していたようでありながら、実はかえって近い本道であったのである。(197頁)

 目先の利害に捉われず、自分の信じる義の道を、ゆっくりとではあっても確実に進み続けること。こうすることが、結果的には、物事を成し遂げる上で効果的な方向に進むことに繋がるのであろう。

「いや、わしはどこまでも、誠実をもって人に接してゆきたい」
「その誠実の通じる相手ならいいでしょうが」
「通じる通じないは人さまざまで是非もない。わたしはただわしの真心に奉じるのみだ」(217頁)

 猛将ではありながらも、いささか義に悖ると言われる呂布からの饗応への招待に応じようとする劉備に対して関羽と張飛は止めようとする。それに対する劉備の最後の言葉が非常に重たく私には響く。

 われら兄弟三名は、各々がみな至らない所のある人間だ。その欠点や不足をお互いに補い合ってこそ始めて真の手足であり一体の兄弟といえるのではないか。そちも神ではない。玄徳も凡夫である。凡夫のわしが、何を以て、そちに神の如き万全を求めようか。(333~334頁)

 酩酊の上で大失態を犯して城を敵に取られた張飛に対する劉備の言葉である。義兄弟の契りを結んだ仲とはいえ、ここまでの寛容の精神を持てるであろうか。思わず襟を正して自身を省みざるを得ない珠玉の言葉である。


2014年12月22日月曜日

【第392回】『三国志(一)』(吉川英治、講談社、1989年)

 幼少の頃、アニメで見たり、子供向けの本で三国志には触れていた。子供の目で見ても面白い作品であり、友人と三国志を話題にしていた。中国における三国時代は、日本における戦国時代のようであり、何となく胸躍る雰囲気の漂う物語であることは言うまでもないだろう。但し、しっかりと分厚い小説で読んだことがなかったこともあり、また最近は歴史小説をよく読んでいることもあり、このたび読むことに思い至った。

 子供の時に三国志をたのしんでいたときは、冒頭の部分では、関羽や張飛と比較した劉備の「普通さ」が不思議であった。さらにいえば劉備に対して「凡庸さ」のようなイメージを持っていたと思う。なぜ、勇躍する猛将である関羽や張飛から義兄として敬愛されたのか、曹操や孫権と中国を三分して蜀を統べる存在とまでなったのか、よくわからなかった。この劉備に対する見方が変わったのが、大人としていま三国志に向き合った時に抱いた最も大きな気づきである。

 玄徳はもとより、そう腹も立っていない。こらえるとか、堪忍とか、二人はいっているが、彼自身は、生来の性質が微温的にできているのか、実際、朱雋の命令にしてもそう無礼とも無理とも思えないし、怒るほどに、気色を害されてもいなかったのである。(184頁)

 心を動かされないこと。これは、リーダーとして最も大事な要素の一つではなかろうか。リーダーシップの作用の中の動に関する要素は目立つ一方で、静に関する要素の良さはなかなか際立たない。しかし、ここで描かれている劉備の動かない心は、どこか響くところがある。

 四、五年前に見た黄河もこの通りだった。おそらく百年、千年の後も、黄河の水は、この通りにあるだろう。
 天地の悠久を思うと、人間の一瞬がはかなく感じられた。小功は思わないが、しきりと、生きている間の生甲斐と、意義ある仕事を残さんとする誓願が念じられてくる。(206頁)

 劉備における静のリーダーシップの本質の一端は、時間観にあるのではないか。目の前の時間というよりも、自分自身をも超えた広くて長い時間軸を以て世界を眺めているため、現在に一喜一憂しないのであろう。

 劉備のライバルとなる曹操も、この第一巻から登場する。鼻っ柱が強くエリートのようなイメージを持つ彼の存在がまた、劉備との好対称を為し、三国志の物語としての面白さを増している。

 戦は、実に惨憺たる敗北だったが、その悲境の中に、彼らは、もっとも大きな喜びをあげていたのだった。
 曹操は、臣下の狂喜している様を見て、
 「アア我誤てり。ーーかりそめにも、将たる者は、死を軽んずべきではない。もしゆうべから暁の間に、自害していたら、この部下たちをどんなに悲しませたろう」と、痛感した。
 「訓えられた。訓えられた」と彼は心で繰返した。
 敗戦に教えられたことは大きい。得難い体験であったと思う。
 「戦にも、負けてみるがいい。敗れて初めて覚り得るものがある」
 負け惜しみでなくそう思った。(474~475頁)

 初めての敗戦で死地から辛くも免れた後に、曹操が帰って来たことを喜ぶ将兵たちの様子から学ぶシーンである。天才肌の奸雄として描かれてきた曹操が、純粋な気持ちで反省し、学ぶ姿が、美しさすら感じさせる。

2014年12月21日日曜日

【第391回】『日本教徒』(イザヤ・ベンダサン、山本七平訳編、角川書店、2008年)

 本書は、著者が戦国時代から江戸時代を生きた不干斎ハビヤンをして、「日本教」の開祖であるという大胆な仮説を提示したものである。ハビヤンという名前から外国人をイメージされる方もあろうが、日本人である。彼の思想および宗教における変遷を要約した以下の箇所が、彼の特異な来歴を理解すると共に、それを通じて「日本教」の内容を理解できると言えよう。

 彼を「棄教者」とか「転びキリシタン」とか「転向者」とか呼ぶのは誤りである。彼自身は少しも変っていない。彼はその人生を仏教の僧侶としてはじめ、ついでキリシタンの修道士となり、おそらく最後には儒教的道教的(?)思想家として終ったと思われるが、この間の彼の態度はむしろ、真摯なる求道者のそれである。そしてその態度に明確に見られるのが一種の「個人主義」である。彼は、彼のいう意味の宗教乃至は思想と「自己」とを対等の関係におき、「ハビヤン個人」が、いずれの宗教乃至は思想を選択するのも自由だ、という態度をとった。すなわち彼の“転向”は常に自らの意志に基づく「選択」であって、ある思想を基準とした「転向」ではない。この点その態度は非常に“近代的”といえる。そしておそらく日本人における“個”の自覚は、常に、「宗教・思想の自主的選択」いわば、「人が神を選択する」という彼の思想的遍歴と同じ形でなされているのであろう。(148~149頁)

 故・小室直樹氏も指摘しているように(『日本人のためのイスラム原論』(小室直樹、集英社、2002年))、日本人は、「規範に合わせて人間の行動が変わるのではなく、人間に合わせて規範が変わる。」(同書、124頁)と考える人々である。したがって、ハビヤンは、自分自身が拠って立つ宗教や思想ありきではなく、自分自身の有り様を表す手段として宗教や思想が存在するに過ぎない。私自身が特定の宗教を持たない人間だからかもしれないが、こうした「日本人」像は私にはしっくりくるように思える。

 さらに興味深いのは、こうした自分自身の有り様や世界観を積極的に提示するのではなく、消極的に提示するという「日本教」の特色である。

 「日本教徒」が寓意でなく「実在」することは、彼が証明している。何ものにも動かされない独特の「世界」を自らのうちにもった一人物が、ここにいる。だが彼はその世界を一度も積極的に提示せず、いわば「消去法」で提示しているのである。(29頁)

 自分自身を提示する際に、「私は○○である」と定義するのではなく、「Aでなく、Bでもなく、Cでもない人物である」と消去法で定義する。良く捉えれば、柔軟に自分自身の有り様を定義することができると言えるし、悪く言えば日和見主義と言われる考え方であろう。

 では引き算の考え方によって定義される「日本教」においては、何をもって是とされるのであろうか。著者は、謀叛についての考察から、その内容を明らかにしている。

 「人をも人と思わず」「世を世とも思わぬ」罪に対する告発であり、その罪の行為に対する正当防衛ともいうべき一種の抵抗の権利の発動であり、しかもその発動が、「理念としての血縁への忠誠」に抵触しないからであろう。ということは、ここに、謀叛を起す側にも起される側にも、ともに共通する一つ[の]「義」への忠誠が要請されており、それが基準となって、それにはずれた者の方が不当なのであって、「起す側」「起される側」「天皇家の介入」といったことで、「正当」「不当」がきまるわけではないことを示している。そしてこの基準がハビヤンにとっては「聖」であり、神に等しい絶対であったのであろう。(124頁)

 「人をも人と思わず」「世をよとも思わぬ」行為が、義に悖るものとして認識される。したがって、そうした行為と見られないものが正当な謀叛として大義を持っていると人々に認識され、その一つの例としてハビヤンは、平家打倒を目指す源頼朝の挙兵を挙げる。もっと時代を下れば、明智光秀の信長に対する謀叛が不当なものと認識され、その光秀を討とうとした羽柴秀吉が認められたのかを考えれば、より分かり易いだろう。

 こうした「日本教」においていかに生きることが求められているのか。そこにおいては中庸と形容できるような有り様が理想像の一つとして描かれている。

 人間の一生の「貸借対照表」は、その人の終末において決算をすれば、結局は勝者も敗者も同じであるという考え方なのである。いわば頼朝のように、この貸借のバランスをとっていれば、すなわち「人間相互債務論」に基づく「負債」を意識してその意識に基づいて行動していれば、その生涯は、勝者として終りを迎えうる。しかし「受恩」の義務を認めず、一方では「施恩」を権利と意識して、その権利を乱用して自己の「資産」を浪費してしまえば、結局、破産者=敗者として、生涯の終りにそれを清算しなければならぬ、しかし、清算がすめば、人間は結局同じだというところに、いわば彼の「救い」があるわけであった。(145頁)

 ポジティヴとネガティヴの絶妙なバランスを取ること。換言すれば、物事がうまくいっている時には分をわきまえてほどほどのところで前進することを慎み、うまくいっていない時には諦めずに打開しようとする。「日本教」が他国から理解されにくく、また私たち自身もよくわからない原因の一つが、こうした極めて曖昧でハイコンテクストな部分にあるように、私には思える。


2014年12月20日土曜日

【第390回】『菜根譚』(今井字三郎訳注、岩波書店、1975年)

 NHK教育の「100分 de 名著」での2014年11月放送分で取り上げられた本書。今日的な表現で言えば自己啓発書とも捉えられかねないものであるが、私にはそのように思えない。というのも、現代における自己啓発書がハウツーを提示するのに対して、本書は多様な考え方の存在を示唆させるような逆説的な表現に満ちているからである。人間の持つ多様な価値観の存在を前提にして、自分自身が見ていない側面に焦点を当てる論法は刺激に満ちている。珠玉の言葉の数々を、いくつか紹介していきたい。

 君子の心ばえは、青天白日のように公明正大にして、常に人にわからないところがないようにさせねばならぬ。然し才智の方は、珠玉のように大切に包みかくして、常に人にわかりやすいようにしてはならない。(その心事が明白でないと陰険だと思われ、その才華を表わしすぎると、衒うと思われるから。心事が本で、才華は末である。)(前集・三)

 意図は明確に示す一方で、能力は全てを見せないようにする。これと逆のことを想起すれば、この指摘のポイントが分かり易いだろう。つまり、能力があることが明白であるのに、何をしようとしているのか意図が不明瞭な人物がいたら、周囲は警戒するだろう。

 (人情は翻覆常なく愛憎は忽ちに変ずる)。恩情の厚いときに、昔から、ややもすれば思わぬ災害を生ずることが多い。それ故に、恩情が厚くて得意な境遇のときに、早く反省して後々の覚悟をしておくがよい。また物事は失敗した後に、かえって成功の機をつかむことが多い。それ故に、失敗して思うにまかせぬときにこそ、手を放し投げ出してしまってはならない。(前集・一〇)

 他者から評価されている間に自分自身を省みるようにし、うまくいかないときに諦めずに努力しようとすること。自明の理であるとともに、行なうことは難しい真理である。

 苦心して仕事にはげむのは、たしかに美徳である。しかし、あまり苦心してあくせくしすぎると、本性を楽しませ心情を喜ばせることがなくなってしまう。また、さっぱりして執着がないのは、たしかに風格が高い。しかし、あまり枯れて干からびすぎると、人を救い世に役立つことがなくなってしまう。(前集・二九)

 こうした逆説的表現が本書の最大の魅力であろう。執着せずに淡々と仕事をしすぎることも良くないし、また苦労を買ってしゃにむに働きすぎるのも良くない。どちらとも自分の中に思い至ることがあるポイントであり、心がけるようにしたいものだ。

 古人の書物を読んでも、字句の解釈だけで聖賢の心に触れなければ、それでは文字の奴隷となるにすぎない。また、官位にあっても、俸給を貪るだけで人民を思い愛さなければ、それでは禄ぬす人となるにすぎない。また、学問を講じても、高遠なりくつを説くだけで実践躬行することを尊重しなければ、それでは口先だけの禅となるにすぎない。また、事業をおこしても、自分の利益だけを計って後々のために徳を植え育てておくことを考えなければ、それでは目先だけの花となるにすぎない。(前集・五六)

 テクストを理解することだけではなく、そのテクストを書く背景にある著者の心を感じ取ろうとすること。「文字の奴隷」という言葉が重たく刺さる至言である。

 心はいつも空虚にしておかねばならぬ。空虚であれば、道理が自然にはいってくる。また、心はいつも充実しておかねばならぬ。充実しておれば、物欲がはいる余地はない。(前集・七五)

 これまた難しい二律背反である。空虚にしながら、充実させておく。考え続けたいテーマである。

 人格が才能の主人で、才能は人格の召使いである。才能だけがあって人格の劣ったものは、家に主人がいなくて、召使いが勝手気ままにふるまうようなものである。どんなにか、もののけが現われて、暴れまわらないことがあろうか。(前集・一三九)

 人格の陶冶なくして、才能を活かすことはできない。そうであるにも関わらず、能力や才能の向上を徒に煽り、人格に焦点を当てる書籍がいかに少ないか。しかし、そうであるからこそ、人格に焦点を当てることの重要性が高いというのもまた、皮肉な現象である。

 つまらぬ小人どもを相手にするな。小人には小人なりの相手があるものである。また、りっぱな君子にこびへつらうな。君子はもともとえこひいきなど、してくれないものである。(前集・一八六)

 前段には目新しさを感じなかったが、後段にまでは思いが至っていなかった。たしかに、自分が尊敬する相手には媚び諂ってしまうことがあるにもかかわらず、それをそのまま受け取ってもらえない感覚を持つことがよくある。その理由は、ここでの指摘にある通りなのであろう。

 倹約はたしかに美徳ではあるが、度を過ごすとけちになり、卑しくなって、かえって正道を損なう結果になる。また、謙譲は良い行為ではあるが、度を過ごすとばかていねいになり、慎みすぎで卑屈になって、たいてい何かこんたんのある心から出ている。(前集・一九八)

 後段は、慇懃無礼を指しているのであろう。しかし、丁寧すぎると翻って礼を失するということに加えて、何らかの良くない意図が内包されているようにすら見えてしまうものだという指摘を心して受け止めたい。

 思い通りにならないことを気にかけすぎるな。また、思い通りになってもむやみに喜んではならない。いつまでも平穏無事であることをあてにするな。また、最初から困難を思って気おくれするな。(前集・一九九)

 考えさせられる逆説の繰り返しである。スタティックな状態を期待してはいけない一方で、ダイナミックな変化を恐れてアクションを起こさないこともまた戒められている。

 歳月は、元来、長久なものであるが、気ぜわしい者が、自分自身でせき立てて短くする。天地は、元来、広大なものであるが、心ねの卑しい者が、自分自身で狭くする。(方々に不義理を重ねたりして)。春は花、夏は涼風、秋は月、冬は雪と四季折々の風雅は、元来、のどかなものであるが、あくせくする者が、自分自身で煩わしいものとしている。(すべて、その人の心の持ち方によるものである)。(後集・四)

 読むだけで長閑な気持ちになる箇所である。このようにありたいものだ。

2014年12月15日月曜日

【第389回】『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎、朝日出版社、2011年)

 <欲望の対象>と<欲望の原因>の区別を使って次のように言い換えてもいい。人は、自分が<欲望の対象>を<欲望の原因>と取り違えているという事実に思い至りたくない。そのために熱中できる騒ぎをもとめる。(39頁)

 原因があるから対象が存在するのではない。欲望の対象を所与の前提として、そうした欲望を持っているから行動するかのように人は思うようだ。欲望の多くは、自分自身に備わっているものではなく、外界から与えられるものなのではないか。これが著者の本書における問題意識である。

 欲望を取り巻く外界に対する認識の一つに、暇と退屈という似て非なる二つのものがある。それぞれの意味合いについて、著者は以下のように定義づける。

 暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。暇は、暇のなかにいる人のあり方とか感じ方は無関係に存在する。つまり暇は客観的な条件に関わっている。
 それに対し、退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。それは人のあり方や感じ方に関わっている。つまり退屈は主観的な状態のことだ。(100~101頁)

 暇が客観的なものであるのに対して、退屈は状況に対する主観的な捉え方に基づくものである、と著者はしている。そうであれば、退屈という状態において、いかに欲望の対象が形成されるのか、ということが問題になってくる。その際の一つのテーマとして、現代社会においては消費行動が挙げられる。

 消費者が受け取っているのは、食事という物ではない。その店に付与された観念や意味である。この消費行動において、店は完全に記号になっている。だから消費は終わらない。(147頁)

 冒頭で引用した通り、自身の中に欲望の原因があるから欲望の対象を欲するということではなく、外部から与えられた観念や意味によって対象を欲するようになる。したがって、消費行動の主要な原因は自分自身にあるものではなく外部から与えられるものである。だからこそ、自分自身に必要なもの以上のものを、絶え間なく外部から与えられることによって、欲望に歯止めがかからなくなる。これが現代社会における消費行動であると著者は喝破する。

 労働が消費されるようになると、今度は労働外の時間、つまり余暇も消費の対象となる。自分が余暇においてまっとうな意味や観念を消費していることを示さなければならないのである。「自分は生産的労働に拘束されてなんかないぞ」。「余暇を自由にできるのだぞ」。そういった証拠を提示することをだれもが催促されている。
 だから余暇はもはや活動が停止する時間ではない。それは非生産的活動を消費する時間である。余暇はいまや、「俺は好きなことをしているんだぞ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。逆説的だが、何かをしなければならないのが余暇という時間なのだ。(152頁)

 消費の対象が労働関係にまで及んでくると、その影響は労働以外の時間としての余暇の時間にまで及んでくることとなる。こうした現象はSNSで飛び交う情報を見れば、嫌が応にも首肯せざるを得ないだろう。むろん、私はSNSが悪いというつもりは毛頭ないし、実際に私も楽しんで使っている。このブログを書いているのもその一環だ。ただし、「自分が余暇を楽しんでいる」ということを不必要に、または他者からの目を気にしてアピールしようとする、という心持ちがあるかどうか。この点に留意しながら、もしそうした心持ちがある場合にはSNSへの投稿を一旦留保するというゆとりを持ちたいと思う。

 「決断」という言葉には英雄的な雰囲気が漂う。しかし、実際にはそこに現れるのは英雄的有り様からほど遠い状態、心地よい奴隷状態に他ならない。(299頁)

 余暇の消費の延長上で起こるのは、何かを始める、組織を立ち上げる、新しいことにチャレンジする、といった決断をSNSでアピールすることであろう。私自身も二十代の後半まではそうしたことをよくやっていたし、頻度は少なくなれども現在でもそうした行動を時に取ってしまう。ここで著者が指摘しているのは、決断した対象に対する結果に関してではなく、決断することによって他の対象への関心がなくなり、一つのものだけにフォーカスできるという心理状態である。これを奴隷状態と呼んでいることから考えればその含意は分かるだろう。つまり、本来は多様な関心があって揺れ動くのが本性であるのに対して、自分自身が決断したことに焦点を当てることは本性から離れ自分で自分を奴隷状態にしていることに過ぎない。さらには、そうした自縄自縛や疎外といった状態に心地よさを感じるのが、決断をアピールすることが持つ危険性であろう。決断が必要な時もあろうが、常にそうした状態を繰り返したくなる常習性に対して、著者は警鐘を鳴らしているのである。


2014年12月14日日曜日

【第388回】『易経』(高田真治・後藤基巳訳、岩波書店、1969年)

 先日、自分にとってのベスト10冊を選ぶというワークを行なった。その相手が、ベスト1として挙げていたのが本書である。そこまで勧められれば読んでみたいと思うのが心情である。しかし、率直に言ってよく分からなかったというのが印象である。

 ただし、そうした中でも興味深かった部分はある。本書を読むまでは、易というものを単なる占いとして認識していた。「当たるも八卦当たらぬも八卦」や「乾坤一擲」といった言葉は易経から来ており、どちらも博奕で使われることの多い言葉であろう。しかし、博奕のように、ある目が出た時にそれが一対一で意味合いを持つという論法を易経を取っていない。たとえば、以下の箇所を見てほしい。

 无妄は、虚妄なきこと、自然のままにして真実なこと。卦徳の天道をもって動くに取る。この无妄真実の道をもって事を行なえば大いに亨るが、そのためには貞正をとり保つことがよろしい。もし動機が不正であるならば、かえってみずからわざわいを招くことになるであろうから、進んで事を行なうにはよろしくない。(上巻・233

 「自然のままにして真実なこと」とは良い意味合いを持つものであろう。しかし、動機が不正である状態であれば良くない意味合いになると結んでいる。以下の箇所も同様だ。

 凶ではあるが静かにしていれば吉だというのは、道に順う心があれば害にはならぬということである。(下巻・15頁)

 凶という悪い内容のものであっても、それをいかに回避するかという方法が書かれている。ここに、占いとは異なる思想を私たちは易経に見出すことができる。

 易は天道を推して人事に及ぼし、広大ことごとく備わらざるはない。易は修養の書であり、経綸の書であり、立命の書である。以って身を修むべく、以って事業を興すべく、以って尊富安寧を保つべく、以って貧賎不遇に処すべきである。(上巻・28頁)

 易経は修養の書なのである。占いというものには、楽をしようとするものというイメージがあるが、自分自身を修養させるための書物なのである。


2014年12月13日土曜日

【第387回】『国盗り物語(四)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)

 読後の今、不思議に思うことがある。本作の主人公は、前作と同様に信長であったのであろうか。少なくとも私は、明智光秀に心境を照らし合わせながら読んでいた。

 まずは、信長に対して光秀が抱く人物評を取りあげたい。

 勁烈な目的意識をもった男で、自分のもつあらゆるものをその目的のために集中する、つまり「つねに本気でいる」男だ、と光秀はいった。(147

 (信長は自分の先例を真似ない)
 ということに光秀は感心した。常人のできることではなかった。普通なら、自分の若いころの奇功を誇り、その戦法がよいと思い、それを摸倣し、百戦そのやり方でやりそうなものだが、信長というのはそうではなかった。(169頁)

 強烈な目的意識とそれを唯一の拠り所に断固として行動する。また、その達成のためには手段に捉われず、自分自身の成功体験すらも捨て去ることができる。リーダーシップの発揮の有り様として、信長が後世において賞讃されることの多い理由が、光秀の目から端的に語られている。しかし、そのようなトップに仕える身であるからこそ感じる苦労もまた、多いものだ。

 光秀の胸中には、生き身の義昭とはべつの、光秀の放浪期の偶像ともいうべき義昭がいまなお棲みつづけている。それを討ち、さらに足利将軍家をつぶすとなれば、光秀のこれまでが何のためにあったのか、わからない。
 (おれ自身の過去を討つことになる)(511頁)

 この夫は外で心気を労しきるために、内でこのような大言壮語を吐いてかろうじて心の平静を保とうとしているのであろう。(550~551頁)

 独自の正義感が強い信長に否定されないよう、自身のかつての主人を追放するというアクションすら、拒絶することはできない。内省的な人物として描写される光秀にとって、意志を持って取りつづけた過去の自分の行動を、自分自身で否定することは辛かったに違いない。そうした辛さを外で吐露することはできないため、内において大きなことを言いたくなる気持ちというのは、痛いほどによく分かる。

 リーダーシップの朗らかな側面と沈鬱とした側面とを併せ持つ信長。彼に対して、最終的に論理よりも感情面での決断によって謀反を決断した光秀。感情の最も大きな部分の拠り所となったのは以下の部分に凝縮されているのではないか。

 光秀は、教養主義者である。粗野で無教養な男というものを頭から軽侮する癖をもっている。信長を、その軽侮の対象として見た。(18頁)

 ある人物に対するプラスの感情とマイナスの感情。通常、私たちは二つの側面を抱くものだろう。何らかの事情でそのどちらか一つを選択しなければならない時。自分の領国を返上させられた揚句に中国の刈り取りを許可された毛利討伐に赴くか、主殺しの悪名を享けてでも天下を自分自身の理想に近づけるために本能寺に進路を取るか。究極の二択が眼前にあった時に、その決断は、論理ではなく感情が為したのではないだろうか。光秀にとって、最初に抱いた信長への感情が、その後の経験則に基づいた理性的判断に優り、本能寺の変は起ったのであろう。

『明智左馬助の恋』(加藤廣、文藝春秋社、2010年)

2014年12月8日月曜日

【第386回】『国盗り物語(三)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)

 物語の主人公は、斎藤道三からその婿である織田信長へと移る。信長を主題にした歴史小説は多い。戦国という乱世において、旧来の価値観を一変させ、領国の政治や対外的な戦争を併せて遂行するリーダー。こうしたイメージは本作を読んでも変らない。しかし、そうしたイメージから飛躍しながら踏襲する、以下の二点の描写が印象的であった。

 蝮は、自分と会った四月二十日を選び、おのれの命日にしたかったのではあるまいか。いやそうにちがいない。四月二十日を命日にしておけば道三のあとを弔うべき信長にとって二重に意味のある祥月命日になるのであった。されば信長は生涯道三を忘れぬであろう。
(あの男は、そこまでおれを思っている)
 若い信長にとって、この発見は堪えられぬほどの感傷をそそった。(245

 信長にはウェットなイメージはなかなかない。ドライな人事を行ない、感情に流されずに大局で判断する。しかし、そうした信長であっても、著者は、二人の人物のみから理解されていて、彼らに対して感情的な親近感を抱かせている。一人は実父である織田信忠であり、もう一人がこの義父である斎藤道三である。道三が勝ち目のない死に戦に赴かざるを得ない状況に陥った時に、その戦の日付を、信長と道三とが初めて面会した日にしたのではないか、と信長に感じさせている。信長の伝記において、数少ない感動できるシーンの一つである。

 信長には、稀有な性格がある。人間を機能としてしか見ないことだ。(中略)
 その男は何が出来るか、どれほど出来るか、という能力だけで部下を使い、抜擢し、ときには除外し、ひどいばあいは追放したり殺したりした。すさまじい人事である。(520~521頁)

 こちらは、信長の典型的なイメージに基づいた特性を簡潔にして明瞭に表現している箇所だ。人間を人間性として認識するのではなく、何を為すかという機能として認識する。そうであるからこそ、諸機能の統合体としての人間にどのようなことをしても罪悪感を感じなかったのであろう。自分にとって、また自分が描く戦略にとって、必要な機能を選択し、それを適材適所に配置する、という発想であれば、何でも大胆にすることができよう。これが信長の圧倒的な強みであり、さらには絶対的なリスクを内包していたのであろう。そうであるからこそ、そうした信長の発想を理解する人物を、信長は大事にしたのではないか。


2014年12月7日日曜日

【第385回】『国盗り物語(二)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)

 前作から時代が進み、いよいよ美濃の「国盗り」の総仕上げへと着手する斎藤道三。その人間性の成熟と、類い稀な意志の描写とが興味深い一冊。

 美濃をわが力で征服し、あたらしい秩序をつくることこそかれの正義である。
 庄九郎の道徳ではそのためには、いかなることをしてもよいのである。旧来の法をまもり、道徳をまもり、神仏に従順な者が、旧秩序をひっくりかえして統一の大業を遂げられるはずがない。(100

 旧来の秩序ではなく、自分自身が正義と信じるものに突き進む。見えないものを見て、その実現に向けて周囲に影響を発揮していく。リーダーシップの有り様を見るようである。

「人間、大をなすにはなにが肝要であるかを知っているか」
 (中略)
「義だ。孟子にある。孟子が百年をへだてて私淑していた孔子は、仁だといった。ところが末法乱世の世に、仁など持ちあわせている人間はなく、あったところで生まれつきのお人好しだけだろう。そこで孟子は、義といういわばたれでも真似のできる戦国むきの道徳を提唱した。孟子の時代といまの日本とは、鏡で映したほどに似ている」(202頁)

 何を以て自分自身の拠り所とするか。道三は、それを義であるとしている。むろん、自分自身が抱く大望もあるだろう。しかし、その大望を律する思想を自分で持つようにしているところが、道三の凄みを増しているのではないだろうか。

 人間、善人とか悪人とかいわれるような奴におれはなりたくない。善悪を超絶したもう一段上の自然法爾のなかにおれの精神は住んでおるつもりだ(300頁)

 善や悪という判断を下すには主観が入り込む。主観が入り込むということは、そこに無理が加わる。道三の場合は、無理を加えるのではなく、自然を重んじる。リーダーであるということは、自然体であるという側面もあるのだろう。

 こうした道三の帝王学を学んだ者が二人いた、と著者はしている。織田信長と明智光秀である。本作のこの後の展開を予告するような以下の箇所が印象的である。

 道三が、娘をもつ。その娘の婿になるのが織田信長である。信長と道三の交情というのは濃やかなもので、道三がもっている新時代へのあこがれ、独創性、権謀述数、経済政策、戦争の仕方など世を覆してあたらしい世をつくってゆくすべてのものを、信長なりに吸収した。
 さらに、道三には、妻に甥がいる。これが道三に私淑し、相弟子の信長とおなじようなものを吸収した。しかし吸収の仕方がちがっていた。信長は道三のもっている先例を無視した独創性を学んだが、このいま一人の弟子は、道三のもつ古典的教養にあこがれ、その色あいのなかで「道三学」を身につけた。この弟子が、明智光秀である。(181頁)

2014年12月6日土曜日

【第384回】『国盗り物語(一)』(司馬遼太郎、新潮社、1971年)

 戦国時代を描く小説、とりわけ信長や秀吉を主題とした著作を読むと出てくる「蝮の道三」。子どもの頃から斎藤道三の存在は知っていたが、主人公として描かれた作品を読むのは初めてであった。一介の油売りから身を起こしたとよく形容されるが、本作を読めば、それどころか寺を抜け出て何もない所から国のトップに立つところまで至ったことが分かる。その希有な人間性の本質は何か。三つほど挙げてみたい。

 澄んでいる。この男の声をきく者は、すべて、これがなまな人間の穢身から出た声か、とおもうほど、清らかである。自分のやることのすべてが正義だ、と信じている証拠だろう。(22

 一つめは、自分自身がやることを、どのようなことであれ、正義であると信じ込んでいる点である。自分に対する自信が揺らがず、信じて疑わない。少しでも自分を疑ってしまうとその自信の欠落が表面に現れ、他者にも伝わる。それがないため、他者から信頼を得られる。その信頼のもとが、道三の虚構であろうとも、他者はともすると進んで道三を頼ってしまうのであろう。

 庄九郎も、手をにぎった。冷徹な計算力が働くかとおもえば、ときに激越な感情家でもある庄九郎は、手をにぎりながら懐かしさに堪えきれず、涙がこぼれた。(247頁)

 第二は、人間味である。第一の点からは、計算づくで自信を持って行動する冷徹な切れ者という人間像がイメージされるのに対して、第二の点はそれを打ち消すかのような人間性である。情熱と冷静さというともすると相反するように見える二つの性質を併せ持つが故に、道三には不思議なエネルギーが宿されたのではないか。

 庄九郎は、昂奮している。この男ほど人間を馬鹿にしながら、この男ほど人間に惚れやすい男もめずらしい。(489頁)

 第三のポイントは、人間関係についてである。冷静に状況を観察しながら、自分自身が情熱的に振る舞う。こうした人を巻き込むリーダーとしての資質を持ち、他者から惚れられる存在でありながら、他者に惚れやすい存在でもあるというのだから、面白い。

2014年12月1日月曜日

【第383回】『暗夜行路』(志賀直哉、新潮社、1990年)

 幼い頃から本を読んできた。正確には、小学生時代には、両親の教育方針により、朝食の前に約十分の読書時間というものが設けられ、読む機会を強制的に作られていたという表現が適切である。古今東西の偉人の伝記や、名作と呼ばれる書物を紐解くことはそれなりにたのしく、嫌々ながら本を読むということはなかったように記憶している。

 読書との蜜月状態が一時的に中断していたのは、中学生から高校生の時分である。両親は、子どもに読書を勧めるにも関わらず、自分たち自身は本を読む習慣を持っていなかった。また、私は四人きょうだいの長子であり、ガイドとなるような書物を勧めてくれる人物は、当時の私の周りにはいなかった。そのため、中学時点において読める書籍と、その時点ではその善さが分からない書籍との峻別ができなかったのである。そのような私にとって、朝の読書は次第にフラストレーションとなることが多くなっていった。読書の習慣を辞めさせる決定打となったのが、本書、つまり『暗夜行路』であった。主人公の出自の設定が過酷すぎて共感できなかったのであろうか、本書のメッセージや意味が分からなかったのである。

 高校を卒業し大学に入学する十八歳の春から、再び書籍とは良好な関係を築き始めたのではあるが、本書を読むことは私にとって二十年ぶりのリベンジであった。数年前から小説も好んで読むようになってから、いつかは本書に再挑戦したいと思っていたが、なかなか踏ん切りがつかなかった。今回、一大決心をして読んでみて、非常に惹き付けられたというような劇的な変化はなかったが、しみじみと噛み締めながら読むことはできた。とりわけ印象的であった部分を抜き書きしてみたい。

 船は風に逆らい、黙って闇へ突き進む。それは何か大きな怪物のように思われた。(150頁

 自身の境遇にまつわる暗い状況を振り払おうとする、主人公の苦闘ぶりをアナロジーとして描いているのであろうか。感ずる部分の大きい箇所である。

 自分のような運命で生れた人間も決して少なくないに違いない。謙作はそんな事を考えた。道徳的欠陥から生れたという事は何かの意味でそれは恐しい遺伝となりかねない気もした。そういう芽は自分にもないとは云えない気がした。然し自分には同時にその反対なものも恵まれている。それによって自分はその悪い芽を延ばさなければいいのだと思った。本統につつしもう。自分は自分のそういう出生を知ったが為めに一層つつしめばいいのだ。(200頁)

 自身ののろわれた生まれについて兄から知らされた後の主人公のモノローグである。苦しい状況の中で、どのように対処していくかを自分自身で試行錯誤しながら考えているシーンである。こうした考え方をすることによって、悩みがなくなるというわけではない。しかし、考えを巡らせることによって、自分自身の精神状態を安定させる作用にはなり得るのではないか。

 人と人との下らぬ交渉で日々を浪費して来たような自身の過去を顧み、彼は更に広い世界が展けたように感じた。(518頁)

 結婚後にも主人公に襲いかかる不幸の連続。それらの果てに、一人旅に出て山寺での生活の中で会得した認識の変容が描かれている。苦境の中で苦しみながら、自分自身の認識を変容させようともがくことが、自分の人生を切り拓くということなのではないか。単に、過去の経験を応用するのではなく、過去の有り様をアンラーニングして、自分自身の内にある可能性を開拓すること。キャリアに関する考え方とも通ずる(『「働く居場所」の作り方』(花田光世、日本経済新聞出版社、2013年))ように私には読める。

 本書を読めるようになったのは、二十数年という決して短くはない人生経験を経たからだけではないように思う。小説というものを、登場人物に共感しながら読もうとすると、心理的に入り込めないケースもある。しかし、以前の島崎藤村の『破壊』に関するエントリー(『破壊』(島崎藤村、青空文庫))でも述べたように、自分が知らない他者の世界観や、自分が知らない自分自身の多様性への感受性を耕すこともまた、小説を読む醍醐味なのではないか。このように考えれば、私にとって本書もまた、感ずるところの多い小説であったと言える。


2014年11月30日日曜日

【第382回】『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹、哲学書房、2002年

 下手の横好きで、哲学書を読むことがよくある。むろん、途中で力尽きて理解することを断念するものもある。そうしたもののうちの一冊が『論理哲学論考』(以下『論考』)だ。本書は、『論考』の流れに沿って著者が解説を試みる入門書である。ために、私のような「挫折組」にとっても適したガイドブックである。

 優れたガイドブックであるとはいえ、正直に白状すれば、読み終えた今の段階において詳らかにウィトゲンシュタインを理解したとは言える状況ではない。私が把捉した範囲において、ポイントを振り返りながら以下から見ていきたい。

 いま確認されたことは次の二点である。(1)思考可能性の限界を思考によって画定することはできない。他方、(2)言語の有意味性の限界ならば画定可能である。(21

 思考できる領域と思考できない領域との境界を、思考によって画定することはできない。抽象化すれば、Aの範囲と非Aの範囲をAによって画定することはできない、ということである。やや飛躍するが、日本の領土と日本でない領土とを、日本が(単独で)画定することができない、と考えれば、何となく理解できるだろう。その上でウィトゲンシュタインは、言語の有意味性の限界については画定可能であるとしていることに私たちは注目するべきであろう。これがあの有名な「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」へと通じるのである。では言語によって私たちは何を理解することができるのであろうか。

 われわれは、現実性から可能性への道筋を、すなわち、成立していることの総体であるこの世界から出発し、成立しうることの総体である論理空間へと至る道筋を、おおまかにではあるが辿った。もっとも重要な点は、そこに現実の像たる言語が介在するということである。言語がなければ、われわれは現実性から可能性へとジャンプすることはできない。(43頁)

 著者によれば、言語によって現実空間から論理空間を見出すことができるようになるという。ここで思い起こされることは、抽象化もしくは理論化といった研究的態度である。たとえば、ビジネスにおける研究的態度を考えてみたい。現実に存在する企業の中で働く私たちにとって、現実を抽象化するためには、慎ましやかな態度で行なうことが必要だろう。さらに言えば、抽象化された事象を具象化する際にも、理論の背景にある研究の射程範囲を捉まえた上で限定的に行なうことが求められる。このように考えた上で、私たちは言語を、その限界を踏まえていかに活用できるのだろうか。

 ある名の論理形式はその名だけ単独で与えられるものではなく、他の名とともに、言語全体の網の目として張られるしかない。かくして、対象に到達するにも、言語の全体が要求されるのである。(65頁)

 言語を活用するには、言語全体の構造を理解している必要がある。つまり、ある言語を理解するためには、その言語をアプリオリに知悉していなければ、その含意する内容を想起することはできない。そうであるからこそ、いわゆる「引き出し」をいかに持っているかが、私たちにとって重要なのであろう。「引き出し」がなければ、言語を通じて構成される論理空間をセンスし、それを自分自身に惹き付けて応用的に具象化することはできないからである。

 『論考』はこうした世界解釈を扱うものである。しかし、その射程範囲は、上述したような無機質的なものだけではなく、私たちの主観にも影響を与える。興味深いのは、幸福という極めて主観的なものを扱っている箇所だ。

 幸福になるために、私はさらに一歩を踏み出さねばならない。それは、私の「意志」である。ここにおいてはじめて、そしてただここにおいてのみ、『論考』の提示する全構図の中に「意志」が所を得る。(264頁)
 世界の事実を事実ありのままに受けとる純粋に観想的な主体には幸福も不幸もない。幸福や不幸を生み出すのは、生きる意志である。生きる意志に満たされた世界、それが善き生であり、幸福な世界である。生きる意志を奪い取る世界、それが悪しき生であり、不幸な世界である。あるいは、ここで美との通底点を見出すならば、美とは私に生きる意志を呼び覚ます力のことであるだろう。(265頁)
 ここで私は、『論考』における「世界」概念が三段階の変容を受けていることを指摘したい。最初それは「事実の総体」であった。それはただ現実の事実の総体であり、そこにとどまるならば移ろいゆくものでしかない。次にそれは分析を経て、不変の実体の総体として捉えられる。すなわち、「永遠の相のもとでの世界」である。そして最後、第三の段階として、「意志に彩られた世界」が現れる。それはもちろん、事実の総体でもあり、実体により構成されるものでもある。それゆえこれら三つの規定は相反するものではない。『論考』は議論の進展に伴って「世界」概念をより豊かなものにしていっているのである。それゆえ、最後に現れた「意志に彩られた世界」こそ、『論考』の「世界」概念の到達点であったと言うべきだろう。(266頁)

 まず押さえておきたいのは、ある事実が本来的に善であったり悪であったりするのではない、という点であろう。つまり、事実を言語によって論理化しても、その事実が論理的に善なり悪なりに導かれるものではないということである。結局、私たちが直面する事実については、その事実をありのままに受け取るしかないのである。その上で、生きる意志をもってその事実を解釈しようとすることである。ここで留意したいのは、ある事実が起きた後に意志を持つのでは遅いということではないか。先述したように、私たちの現実解釈は私たちが持っている言語世界によって規定される。したがって、肯定的な世界解釈をでき得る言語の「引き出し」を予め持っていなければ、価値中立的な事実をありのままに見ることができず、肯定的な意味合いを見出せないかもしれない。そうであるからこそ、言葉というものが大事であり、私たちの祖先は言霊という言葉を創り出したのではないだろうか。

 最後に、「語りえぬものについては、沈黙せねばならない」というあまりに有名な言明に対する著者の意志を引用して、本論考を終えたい。

 『論考』は語りの時間制を確信犯的に無視しようとしていた。しかし、語るとは時間的な営みなのである。論理空間の変化はただ時の流れの中においてのみ、示される。それゆえ私はこう言おう。
 語りきれぬものは、語り続けねばならない。(281頁)


2014年11月29日土曜日

【第381回】『知ろうとすること。』(早野龍五・糸井重里、新潮社、2014年)

 3・11の時に私は初めてTwitterの影響力を感じた。情報はまさに玉石混淆であったが、多面的に物事を捉えられるという意味では、Twitterは最適なメディアであったと今でも思う。情報の意味内容はもとより、それを発信する主体についても、いろいろと考えさせられる出来事であった。不安を徒に煽ろうとする人もいれば、不安など何もないと強弁して自分自身の不安に不自然に向き合おうとしない人もいた。混乱した状況の中では、率直にかつ淡々と情報に基づいた考察を述べる早野さんのような方や、そうした発信者の存在を広めようとする糸井さんのような存在がいかに貴重であったか。彼らの対談を読んでいると、不安な中でおぼえた安心感を思い出すような気持ちがする。

糸井 「わからないから怖い」って不安に思っている人ほど、新しい情報に対してオープンじゃなかったりしますよね。(16

 節を曲げないと言うと聞こえはいいが、それはすなわち、現状にオープンにならず、頑に可能性に目を向けないことに繋がりかねない。子供は、怖い状態に堪えられずに、目を覆って現実を見ないようにすることで、心に平安を求めようとすることがある。しかし、そうすることで、本来は事態を好転させることができたかもしれない機会を減衰させていることには、気づかないものだ。大人であっても、同じことだろう。

早野 専門は違っても、科学に対する基本的な態度というのは共通して持っているべきだと思います。プロの科学者として発言をするときや、あるいは科学者として人を敬ったりするとき、自分が乗っている基盤には、分野が違っていても最低限わかり合える、基本的な科学の作法や態度、そういったものがあるんだと思います。(150頁)

 自然科学、社会科学、人文科学。科学という言葉の前に何が付こうと、基本的には同じ態度を持って学問に臨むことが求められるのではないか。というよりも、同じ態度と素養を持っていれば、異なる分野におけるプロフェッショナルとの対話ができる可能性が高まる。それは、自分にとってメリットがあるというよりも、人生を豊かにする経験へと誘われることになるのではないだろうか。

早野 科学的なリテラシーというのは、教わって得られるものじゃなくて、自分で鍛えて身につけていくものだと思ってます。今の福島には、科学的なデータや事象など、たくさんの教材があります。さらに高校生たちは、それらを自分のこと、あるいは自分の家族のこととして、真剣に考えることができる環境にあります。その環境を十分に活かして考える力を発揮してもらえるといいな、ということを思っています。(168頁)

 では、科学におけるリテラシーとは何か。早野氏によれば、それはマニュアルのように十把一絡げにしてインプットできるものではなく、自分自身で意識的に涵養していくものであるとしている。良い研究テーマがなければ研究できないという態度ではなく、日常において身の周りにある事象に興味を持って着目し続けること。そうする態度が、科学的なリテラシーを身につけることに繋がるのであろう。

 よく思うのです。事実はひとつしかありません。事実はひとつしかないけれど、その事実をどう見るのか、どう読むのかについては幾通りもの視点があります。
 その視点は、それぞれに大事にされるべきだと思います。のちに正しかったとか、まちがっていたとか明らかになるにしても、「その見方があった」というのは、これまた事実であるからです。善意とか悪意とか、誠実であったか上段として語られていたかについても、問われる必要はありません。とにかく、その視点があったということは消せない事実であります。(174頁)

 科学的なリテラシーを以て世の中に関与することは、物事の多様性を追求し、その豊潤な関係性を受容することなのではないか。ここで引用した糸井氏の「あとがき」を読んでいると、そのようなことまで考えてみたくなる。


2014年11月25日火曜日

【第380回】『荘子 第四冊』(金谷治訳注、岩波書店、1983年)

 真実の道を体得した古人は、逆境におちこんだ場合も楽しんでおり、順調に成功した場合も楽しんでいた。楽しみとするところは、逆境とか順調とかいう世俗の関心をこえていたのである。真実の道が体得できたなら、逆境か順調かということは、寒暑風雨が移り変わるていどのことになってしまうのだ。(譲王篇 第二十八・十二

 真実の道というと難しく思われるが、つまりは、一喜一憂せずに、心を落ちつかせることであろう。心を落ちつかせ、自ずから然りの心境に至ることができれば、周囲の状況によって惑わされることがなく、何事も楽しむことができるようになるのであろう。

 現象をささえる根本こそが精妙だと考えて、現象世界の存在を粗雑だとみなし、物はいくら積みあげても満足できないとして[それを追求することはやめ]、安らかに落ちついて、ひとりあの霊妙にして聡明な真理のはたらきに身をよせてゆく。昔の道術のなかには、そうした立場のものがあった。(天下篇 第三十三・五)

 意味内容はよくわからない。しかし、なぜか、心に響くものがある箇所である。


2014年11月24日月曜日

【第379回】『荘子 第三冊』(金谷治訳注、岩波書店、1982年)

 なにも知らないで無意識、なにも気にかけないでのびのび、おぼろげなとらえどころのないありさまで、去っていくものを送り、やって来るものを迎え、来るものは拒まず、去るものはひきとめず、強いものは強いままにまかせ、弱いものは弱いままにまかせ、あいて方から[租税を]出しつくしてくるのを待つのです。そこで朝な夕なに租税をとりたてても、少しもあいてを害することがありません。[わたしの場合でさえこうですから、]ましてやすぐれた真実の道を体得した人なら、なおさらすばらしい成果をあげることでしょう。(山木篇 第二十・三

 この部分を読み、「来る者は拒まず、去る者は追わず」と私の師匠がよく言っていたのを思い出した。自分から何らかの作為を持って相手に対応しようとすると、無駄な力が入ってしまう。そうではなく、自然なままで、むしろ自然な関係性をたのしむという態度が重要なのだろう。

 生は死の伴侶であり、死は生のはじまりである。[生と死と]どちらがはじめであるか、だれにもわかりはしない。人が生きているのは気が集まっているからで、気が集合すると生となり、分散すると死となるのだ。もし死と生とが[こうした同じ気の集散で、]伴侶の関係だとわかれば、もはや生死についてくよくよすることは何もなかろう。だから万物も[同じ一つの気の変化であって、もともと]一つなのだ。そこで自分の善いと思うものはめったにない貴重なものだと考え、自分の悪いと思うものは腐った汚物だと考える[のが人情だ]が、腐った汚物はまた変化してめったにない貴重なものになり、めったにない貴重なものもまた変化して腐った汚物となるものだ。だから『世界じゅうのものはすべてただの一気だ。』といわれる。聖人はそこで[こうした根源的な]一の立場を貴ぶのだ。」(知北遊篇 第二十二・一)

 根源的ななにかが、状況に応じて価値判断を伴われるものへと変化する。ある概念や対象物は、一定したものとして、善なるものや悪なるものといった価値が固定したものではない。全ては変化するものであり、私たち自身もまた、変化するものである。そうであるからこそ、何かに執着するのではなく、変化をたのしむという余裕を持ちたいものだ。

 足切りの刑にあった不具者が世間のきまりを守ろうとしないのは、もう人の非難や誉めことばなどに気をとられないからである。徒刑の囚人が高い所で作業をしても恐れないのは、もう自分の生き死にをあきらめて心にかけないからである。そもそも自分で反復内省して恥じるところがなければ、人の世のことも忘れられる。人の世のことが忘れられたなら、そこからやがて天人ーー自然のままの人ーーになれるだろう。そこで、人から尊敬されても別に喜ばず、軽蔑されても別に怒らないというのは、ただ自然の調和と一致したものだけがそうできるのだ。(庚桑楚篇 第二十三・十二)

 どうすれば安定した気持ちを保てるのか。囚人の喩えが、非常に興味深い。私たちは通常、あきらめるという言葉を悪い意味として考える。しかし、現実の世界に執着をしないという観点では、あきらめるという気持ちは悪いものではないのではないか。

 万物はそれぞれに違ったありかたをしているが、道はそのどれかに特になれ親しんだりはしない。だからこれといって名づけようがなく、名づけようがないからこれといった作為もなく、作為がないからあらゆることがなしとげられるのである。時間には始めと終りがあり、世間には変化がある。(則陽篇 第二十五・九)

 万物は変化するものであり、一定したものにはならない。静態的なものにアジャストするのではなく、動態的なものにアジャストし続けること。名づけることは、一時点における対象物を同定するものにすぎず、留まっていれば、その価値は減衰していくものなのだろう。


2014年11月23日日曜日

【第378回】『荘子 第二冊』(金谷治訳注、岩波書店、1971年)

 荘子自身が書いたと言われる第一冊に対して、第二冊にある「外篇」は、荘子の思想を引き継ぐ複数人が記したものであると言われる。テーストはやや異なることになるが、荘子を引き継ぐ考え方に、感銘を受ける部分は多い。

 世界の人々はみな、自分の知らないことを[外に向かって]追求することはわきまえているが、すでに知っていることをさらに追求しようとするものはいない。みな、自分の善くないと思うことを非難することはわきまえているが、自分が一度善いと思ったことを[さらに反省して]非難しようとするものはいない。こうして、世界は大いに乱れることになる。(胠篋篇 第十・一)

 自分が知らないものを学ぶというのは心地が良いものだ。なにより、それまで知らなかったものを新たに知ることによって、知識欲求が満たされる。もちろん、新しい知識を得ることも大事ではあるが、それと同時に、自分が既に知っていることをより深めることも大事なのではないか。

 そもそも無心の静けさで落ちついた安らかさをたもち、ひっそりした深みにいて作為がないということこそ、天地自然の平安なありかたであり、真実の道とその徳との実質的な内容となるものである。(天道篇 第十三・二)

 無心であること、心を落ち着けること。

 私心をなくしようとするのは、つまりは私心だよ。(天道篇 第十三・七)

 先に引用した箇所にもあるように、作為があると心は平安な状態から離れてしまう。したがって、私心がない自然な状態を実現するには、作為があってはならない。考え方としては分かるが、その内実を体得していくためには、しっかりと噛み締めたいことである。

 受けとる主体が心の内にできていなければ道は[素通りするだけで]そこにとどまらないし、ぴったりした条件が外にできていなければ道はあらわれないからのことである。(天道篇 第十四・五)

 内におけるレディネスと、外におけるレディネス。前者だけでは結果は出ないし、後者だけでは得られた結果の価値を見出すことができない。両者が揃うことで、私たちは、道という概念を感得することができるのであろう。


2014年11月22日土曜日

【第377回】『荘子 第一冊』(金谷治訳注、岩波書店、1971年)

 孔孟思想に対する老荘思想。ということは、老子を下敷きにした考え方が展開されている書物であろうというレベルが読む前の荘子に対する知識であった。こうした初学者にとってありがたいことに、冒頭で訳者が解説を試みてくれている。

 荘子の人生哲学は因循主義で一貫している。そして、それを基礎づけるものが万物斉同の哲学であった。(7頁)
 万物はそれぞれあるがままにあり、そこにおのずからなる宇宙の秩序が構成されているが、それは何者かがそうあらしめているのではなくて、まさに文字どおり「自ら然る」ことによって、人間にとってどうしようもない必然的なものとなっているのである。(8頁)

 荘子の考え方の根幹は因循主義であり、因循主義の一つの基礎概念が万物斉同だと言う。万物斉同とは、何かを作為的にあらしめるのではなく、自ずから然りという自然的な存在である。

 この因循主義をささえるものとして、万物斉同の哲学がある。それは、主として斉物論篇にみえるもので、この現実世界の対立差別のすがたをすべて虚妄としてしりぞける立場であった。(9頁)

 さらに、万物斉同とは、対立をなくし、他との差異によってなにかを描き出すものではないとしている。
 以下からは、印象的に思えた箇所を抜き書きしながら、その所感を記していく。

 [いったい]相手がなければ自分というものもなく、自分がなければさまざまな心も現れようがない。これこそが真実に近いのだ。それでいて、何がそのようなさまざまな状態を起こさせるのかは分からない。真宰ー真の主宰者ーがいるようでもあるが、その形跡は得られない。作用の結果は確かであるが、そうさせてものの形は見えない。実質はあるが姿形はないのである。(斉物論篇 第二・二)

 相手がいるからこそ、自分がいる。自分がいるからこそ、相手がいる。存在とは、こうした相互作用の為せるわざなのであろう。

 そもそも分類するということは分類しないものを残すことであり、区別するということは区別しないものを残すことである。それはどういうことか。聖人は道をそのままわが胸に収めるのであるが、一般の人々は道に区別を立ててそれを他人に示すのである。そこで、区別するということは[道について]見ないところを残している、というのである。(斉物論篇 第二・七)

 分けるということは、分けられないことを残すことにならざるを得ない。孔子も述べる「道」に至るということは、それを理解しようとするのではなく、そのままを受け留めることが重要なのであろう。

 知識については分からないところでそのまま止まっているのが、最高の知識である。[分からないところを強いて分かろうとし、また分かったとするのは、真の知識ではない。](斉物論篇 第二・七)

 知識についても同様である。分からないものを、あたかも分かろうとする行為は、知識を求める行為ではない。ウィトゲンシュタインの「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」を彷彿とさせる。

 それでは、真人というのはどういうものか。むかしの真人は逆境のときでもむりに逆らわず、栄達のときでもかくべつ勇みたたず、万事[をあるがままにまかせて]思慮をめぐらすことがなかった。こうした境地の人は、たとえ過失があってもくよくよと後悔せず、うまくいっても自分でうぬぼれることがない。(大宗師篇 第六・一)

 心を惑わさないこと。逆境でも順境でも、自分の心を一定に保つこと。心に留めておきたい格言である。

2014年11月17日月曜日

【第376回】『日本人のためのイスラム原論』(小室直樹、集英社、2002年)

 9.11の直後に書かれた本書。あのテロリズムの意味合いやインパクトを理解するために、本書を読まなかったことが悔やまれてならない。イスラムについて、さらには宗教について、私たちが理解する上で非常に適したテクストである。むろん、あの惨事から十年以上が過ぎた現在においても、読み応えがあることには変わりがなく、一読を勧めたい一冊である。

 この地球上に宗教はさまざまあれど、イスラム教ほど日本人にとってありがたい宗教はない。
 何となれば、イスラム教が分かれば宗教が分かるからである。(22

 無宗教者が多いと言われる日本人。宗教を持たない私たちの多くにとって、イスラム教は宗教という存在を理解するのに適したものであると著者はしている。

 なぜ、世界宗教たるイスラム教が日本に定着しなかったのか。これはまさしく驚き以外の何物でもない。この不思議を探求せずして、何の学者ぞ、何の学問ぞ。こう言ってもけっして大げさではあるまい。(28頁)

 誕生してからの歴史が長く、また世界中で信者が多くて現代でもその数が増え続けているイスラム教。儒教、仏教、キリスト教といった外来の宗教を受け入れて来た日本において、なぜイスラム教は定着していないのか。書かれてみると自明のように思える問いであっても、なかなか思いつけるものではない。

 イスラムではアッラーを心の内側で信じているだけでは駄目で、同時にその信仰を外面的行動に表わさなければならない。しかも、その外面的行動はコーランをはじめとするさまざまなイスラム法によって明快に規定されている。イスラムでは宗教の法がそのまま社会の法なのである。(56頁)

 イスラム圏においては、法律と社会体制と文化とがイスラム教によって統合されている。イスラムの教えに基づいて、社会が形成され、個人の考え方や行動も規定されている。しかし、こうした外的規範に合わせて行動するということが日本という風土においては受け容れる土壌がない。だからこそイスラム教が日本において定着していないというのが著者の主張である。では、日本に定着した他の諸宗教と、イスラム教との違いは何なのであろうか。

 キリスト教も仏教も、ともに自力救済の可能性を否定している。外面的行動によっては、救われない。救済はともに“与えられるもの”なのである。
 日本の仏教はまず円戒によって、戒律を廃止した。その後、親鸞、日蓮が現われるに至って、ついに自力救済の可能性までが否定されるに至った。
 ここにおいて日本の仏教は、本来の仏教と完全に訣別し、あたかもキリスト教にそっくりの宗教になったというわけである。(103~104頁)

 集団救済の宗教たる儒教が日本に上陸したら、どうなったか。
 その根幹になっている「礼」はたちまちに形骸化してしまった。戒律が消えた仏教と同じ運命をたどったのである。(110頁)

 キリスト教は内面的規範によって律する宗教であり、仏教や儒教は日本に導入された時点で外面的規範が削ぎ落された。違う側面から見れば、外面的規範が存在しない、もしくは取り除かれても機能する宗教であったからこそ、日本人に受け容れられたということである。つまり、外面的規範が厳格でなく、内面的規範によって成り立つ宗教であれば、日本という風土に定着することが可能な条件を満たしていると考えられよう。こうした側面について、著者は、山本七平氏が提唱した「日本教」をもとに以下のように論じている。

 日本人にとって、外面的行動を縛る規範は、言ってみればパンの耳のようなもので、堅いばかりでおいしくない。そんなやっかいな部分はポイと捨て去って、おいしくて柔らかい白い部分だけをつまみ食いするのが、日本人の基本メンタリティなのである。
 こうした日本人の宗教感覚のことを「日本教」という言葉で表わしたのが、故・山本七平氏であった。まさに卓見と言うべきであろう。
 日本固有の神道をベースにして、仏教や儒教の教えなどがミックスされて作られたのが、日本教である。(114~115頁)

 規範に合わせて人間の行動が変わるのではなく、人間に合わせて規範が変わる。これぞ、「日本教のエトス」なり。これが日本人なのである。
 だからこそ、仏教の戒律も廃止されなければならなかったし、また、儒教の規範も受け容れることができなかったというわけである。(124頁)

 外面的規範によって行動を統制するのではなく、自分たちが抱いている内面的規範によって、状況に合わせて柔軟に行動を統御しようとする。これが、神道・仏教・儒教等を受け容れて創り上げた日本教に基づいた行動様式であり、日本教の土壌に合わない宗教は、定着しづらい風土になっているのである。

 ここまでが、なぜ日本においてイスラム教が定着しないのか、という著者の問題意識に対する回答であったと言えよう。次に、著者は、キリスト教文化圏における資本主義の精神が、なぜイスラム諸国では定着しないのか、という点に問題関心は移っていく。まず、キリスト教圏における資本主義の誕生について以下から見ていこう。

 カルヴァンたちがやったのは、中世のキリスト教から呪術的要素を徹底的に追放することにあった。つまり、彼らはキリスト教に合理性を取り戻したのである。
 そして、この合理性の追求がそのまま資本主義の精神へとつながっていく。
 なぜなら、近代資本主義は合理的経営なくしては成り立たない。そして、その合理精神の源泉となったのは他ならぬ聖書であったというわけなのだ。(242頁)

 ここで著者が述べる呪術的要素とは、「神をして人間に従わせる」(212頁)ことにある。どのような言い様であれども、「神の名前を呼ぶ」(212頁)ことによって、神に何らかの依頼をして祈祷することは、人間が神を利用して何かを成し遂げようとすることである。すなわち、神の意志など存在せず、人間の意志を神によって完遂させようとすることは、神の上位に人間を位置づける作用に他ならない。では、神の意志を絶対的なものと徹底した宗教改革後のキリスト教における予定説の考え方に対して、イスラム教はどのような考え方をとるのか。著者は、「宿命論的な予定説」というウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』におけるイスラム教について論じた言葉を用いて説明を試みている。

 宿命論的な予定説とは何ぞや。
 つまり、この世の運命、すなわち人間の宿命(天命)に関しては、すべて神が決定なさる。
 だが、来世の運命に関しては因果律が成り立つ。つまり、この世でイスラムの規範を守り、善行を行なっていけば、救済される。逆に、不信心で罪深い人生を送っていたら、救済されることはない。
 つまり、この世と来世に予定説と因果律を振り分けるというのが、イスラム教の出した結論であったというわけだ。(251~252頁)

 現世において予定説をとりながらも、来世における因果律をとったことが、予定説を徹底しきれず、イスラム教から呪術的要素を取り除けなかったことに繋がった。そのために、資本主義に求められる合理的精神の徹底に至らないため、資本主義が定着できない、と著者はしているのである。

 以上が、資本主義に求められる合理性という概念に基づいたキリスト教とイスラム教の相違点であった。さらに著者は、契約という概念が、両者によって異なっていることを指摘する。契約概念の相違が、イスラム教圏において資本主義が定着できない大きなもう一つの理由になっているとしているのである。

 隣人愛という根本教義によってタテの愛(神と人間のあいだの愛)が、ヨコの愛(人間同士の愛)に転換されたというわけである。
 キリスト教社会において「契約の絶対」が生まれた背景には、この隣人愛の教えを忘れるわけにはいかない。(416頁)

 アッラーはつねにムスリムとともにあって、彼の行動をすべて監視しているというわけだ。
 このような信仰においては、タテの契約がヨコの契約になるという余地はない。
 というのは、そもそも俗界の契約もとどのつまり、すべてタテの契約であって、人間同士の約束なんて成立しようもないからである。(417頁)

 隣人愛によるヨコの契約関係が人間同士の関係性を創り出す契機になっているのに対して、アッラーとのタテの契約関係しか存在しないイスラム教においては、ヨコの関係を創り出す基盤が存在しない。そうであるからこそ、人間同士の契約関係を成立させ得ないイスラム教圏においては、資本主義が成立できないのである。

 このように論じると、イスラム教が劣っているという風に思えるかもしれないが、そうしたことを主張したいのではない。そうではなく、日本という風土にイスラム教が受容さられない理由と、資本主義に適応しづらい理由とを論じてきただけであり、そこに優劣は存在しない。しかし他方で、特にキリスト教との対比を考えると、冒頭で述べた9.11が生じた理由と、その後の緊張関係について考えさせられるところは多い。印象的な部分を以下に引用して本論考を終えたい。

 イスラム教の場合、イスラム法によって社会規範が定められているわけだから、異民族支配を受けたとしても、その生活や風習に制限を受けるわけではない。もちろん、法体系が変わるわけでもない。
 したがって、モンゴル人に支配されることになっても、彼らの心理にはさほど大きなダメージが加わるわけではない。
 ところが、キリスト教徒ときたら……。
 彼らはさんざんイスラムの世話になっているというのに、イスラム教に強化されなかった。
 また、十字軍の戦いで敗れても、その信仰を捨てようとしなかった。
 何という救われない連中であろうかーー。
 これがイスラム教徒の偽らざる感想ではなかったか。
 後年生まれる十字軍コンプレックスの根底には、こうした事実が潜んでいるわけである。(368頁)

2014年11月16日日曜日

【第375回】『新史 太閤記(下)』(司馬遼太郎、新潮社、1973年)

 (人間一生のうち、飛躍を遂げようとおもえば生涯に一度だけ、渾身の智恵をしぼって悪事をせねばならぬ)
 秀吉はそうおもった。ここで秀吉にとってかんじんなことは、悪事を思いきって陽気にやらねばならぬことであった。もし陰気にやればたれの感覚にもそれが悪事として匂い立つが、しかし夏祭りのような陽気さでやればみな気づかず、手拍子をとって囃してくれる。(198頁)

 信長が討たれた後の中国大返しは、信長から受けた恩を返すための聖なる戦闘という意味合いが強かったと言えよう。しかし、光秀を討って信長に報いた後に秀吉は、天下という野望を意識しはじめた自分に気づく。そうした時に、信長の遺子を大義名分にしながら、いかに天下を自分の手に掴むかという「悪事」に思い至る。このように考えれば、ここでの「悪事」というのは、道徳的に問題があるというものではないことに留意が必要であろう。塩野七生さんは『ローマ人の物語』の中で、リーダーが持つ虚栄心と野心という二つのことを対比しながら述べている。虚栄心は必ずしも悪いものではなく、物事を推進していく上でエネルギーを発揮するものである。ただし、野心よりも虚栄心が大きくなると誤りを起こしてしまうと注意を述べている。秀吉の「悪事」は、たしかに秀吉の虚栄心も反映していようが、それ以上に天下太平な世の中を実現するという野心も反映している。だからこそ、陽気に振る舞うことができ、天下統一というエネルギーに変えられたのではないだろうか。

 諸将はすべてが信長の家来であったためにこの三法師の閲兵に感動し、その正義の感情を満足させた。そのくせかれら六万の将士はゆくゆく天下を取るのは三法師ではなく秀吉であろうということを十分に予知していたし、その予知あったがためにこのようによろこんで秀吉の指揮下に入ってはたらいている。かれらの正義と実利が、きわどいところで融合していた。(303~304頁)

 野心と虚栄心とが綯い交ぜになった秀吉の陽気なエネルギーは、その対象である将兵たちに影響を与える。秀吉が信長の遺子を立てようとすることの、虚と実とは、他の人々にも分っている。しかし、分ってはいても、その大義名分に理と情とが含まれていれば、それは認められるのである。秀吉の天下統一という一大事業を為そうとするためには、際どいバランスを意識することが重要なのであろう。

 信長のように敵をいちいちすりつぶしつつ進めてゆくやりかたでは六十余州の征服は何十年もの歳月を必要としてしまうであろう。秀吉はとにもかくにもこの天下をあらごなしに地ならしし、粗壁ながらも見せかけの普請をし、政権を確立させてからあらためて整えようとしていた。事はいそがねばならず、いそぐためにはそれぞれの地に割拠する者は割拠のままその本領を安堵する方針をとらねばならず、そのためには秀吉の心根が人離れのしたほどに寛容であることを天下にむかって知らしめねばならなかった。(390頁)

 さらに、天下統一に向けた方法論に関する、信長と秀吉との違いが興味深い。信長のように敵を殺していく方法では、全ての敵と戦闘して勝つ必要がある。降参したら殺されるのであるから、いたずらに殺されるのを待つのではなく、乾坤一擲の戦いを武将は起こしかねない。それに対して、秀吉は寛容な政策を取った。つまり、戦いで負けた相手も許すし、戦わずに降参した相手も許す。こうした寛容な態度が浸透すればするほど、勢力で劣る相手は、自分自身の領土を守るために戦わずして降参することが合理的な選択肢となる。戦わずに勢力が増えて行くのだから、天下を統一するスピードも上がる。実力と打算とに裏打ちされた秀吉の生き様は、リーダーシップの一つの型と言えるのではないだろうか。

2014年11月15日土曜日

【第374回】『新史 太閤記(上)』(司馬遼太郎、新潮社、1973年)

 最近は戦国時代の小説に手が伸びることが多い。特に、秀吉に関する歴史小説に興味がある。 

 小僧は、落胆した。が、絶望はしない。絶望するには小僧はあまりにも企画力に富みすぎていた。あっというまに次善の策を考えつく能力があって、ついに生涯、失望の暗さを感じたことがない。(31頁)

 秀吉の性格の特徴の一つとして著者は、楽観性を取りあげている。しかし、何事もポジティヴに捉えるということではなく、失望した事実を客観的に把握した上で、次に必要なことを実現させる企画力と修正力とがそこには含意されている。

 猿の異常な努力は、調略や諜報収集をしつつも、その種の暗さやぶきみさを、すこしでも信長や朋輩に勘づかさせぬところにあった。そのため、猿は、呑気で多少とんまな、別な印象を信長にあたえようとしていた。(285頁)

 調略や諜報収集は、戦において有効な活動の一つであろう。しかし、あの時代において、表立って評価されるのは戦闘場面における武功である。したがって、調略や諜報収集の玄人ぶりをあまり目立たせないという如才のなさを秀吉は持っているのだ。

 「知恵とは、勇気があってはじめてひかれるものだ。おれはつねにそうだ」
 が、胸中のこまごまとしたことは、依然いわない。言えないのであろう。目の前に生死の運命が屹立している。それを前になにをいったところで、言葉がむなしく虚空に散り消えるだけのことだということも、この剛胆な小男は知っているのであろう。半兵衛重治はこのときはじめて藤吉郎秀吉という男が、この地上で類のない男であることを骨の髄までしみとおるほどの感動をもっておもった。(450頁)

 知恵だけがあっても人生は開けない。また、勇気だけでは蛮勇になってしまう。勇気と知恵とを同時に発揮すること。これが秀吉をして、信長に評価され、やがては天下人となる上での重要な資質だったのであろう。


【第373回】Number865「BASEBALL FINAL 2014」(文藝春秋、2014年)

 毎年、日本シリーズ後のNumberを買っている。クライマックスシリーズと日本シリーズを数年前から見始め、自然とその特集に興味を抱いて購読するようになった。クライマックスシリーズの是非についてここで述べるつもりはない。しかし、私にとって、クライマックスシリーズという存在は、野球に興味を持たせる手段となっていることは間違いない。

 今号においては、ソフトバンクと阪神の双方の視点から、第1戦から第5戦に至るまでの解説は秀逸である。興味関心がある方はぜひ、本誌を手にとってお読みいただきたい。

 日本シリーズ以外の特集では、大谷投手と藤浪投手という同世代の二人を相手にした石田雄太氏のインタビュー記事が読み応えがあった。変化に対する二人の覚悟について、引用してみたい。

大谷 僕も変化は大事かなと思います。変わることによって後退する怖さもありますけど、それでも前へ進んでいかなきゃいけないので、怖がってる場合じゃないですし……(中略)
藤浪 結局、こっちが勇気を持って変わることが、プロとして何年もコンスタントに結果を残していく難しさなのかもね。(32頁)

 二十歳の若者の発言であることを忘れそうな、含蓄に富んだ言葉ではなかろうか。ビジネスシーンでも活きる考え方を、大学二年生に相当する二人が当たり前のように述べている。二人のように、メディアが注目する活躍をすれば嫌が応にも他者からもてはやされる世界である。そうした環境に適応するために、人付き合いの機会が増えて、自分自身の鍛錬に目が向かなくなることもあるだろう。しかし、自分に向き合い、変化を自ら創り出そうとしている。二人の今後に、ますます興味がわく。


2014年11月10日月曜日

【第372回】『働く幸せ』(大山泰弘、WAVE出版、2009年)

 障碍者雇用やダストレスチョークで有名な日本理化学工業。日本企業で進展しない障害者雇用を半世紀以上も前から行なってきた同社の取り組みについて、同社の会長である著者が述べる言葉は重たく、含蓄に富んでいる。

 「これからは逆境を甘んじて受け入れ、その境遇を最大限に活かす人生でいこう」(41頁)

 著者が大事にしている考え方である。東大を目指して諦めざるを得なかったとき、という多くの人にありがちなレベルの挫折経験とも言えよう。しかし、そうした経験において人生における深い気づきに至れる著者の本気というものを感じさせる。

 「人間の幸せは、ものやお金ではありません。人間の究極の幸せは、次の4つです。その1つは、人に愛されること。2つは、人にほめられること。3つは、人の役に立つこと。そして最後に、人から必要とされること。障害者の方たちが、施設で保護されるより、企業で働きたいと願うのは、社会で必要とされて、本当の幸せを求める人間の証しなのです」(56頁)

 障碍者雇用をはじめたすぐ後に、知人の葬儀で偶然会った住職から言われたこの言葉が、著者にはずっと記憶に残っていると言う。至極当たり前であるからこそ日常的には意識しづらいが、人の役に立ち、人から必要とされる、ということは働くことを通じて得られるものだ。

 「働」という文字は、「人」と「動」が組み合わさってできています。私はこれを、「人のために動く」から「働」になったのだと解釈しています。(59頁)

 障碍者の方々が、同僚のために純粋な気持ちで働こうとする様を見て、こうした考えに至ったと言う。働くという行為は、ともすると市場価値やビジネスインパクトといった定量化できる卑近なものに捉えられがちだが、本来はもっと純粋なものなのかもしれない。

 「福祉」の世界で、ここまで必死に考えることができるでしょうか?私には難しいように思えます。知恵を絞らなければ、組織が潰れるという危機感は企業ほどにはないはずだからです。利益を出すことが絶対条件である企業だからこそ、知的障害者も働くことができるように工夫することができるのです。(94~96頁)

 著者はなにも福祉の世界において障碍者の方々が働くことを否定しているわけではない。そうではなく、企業という現場において、障碍者の方々に働いてもらうことの意義をここで述べたいのであろう。それはなにも、障碍者の方々にとってメリットがあるわけではなく、健常者の人々にもメリットがあるとして、以下のように述べる。

 健常者は、知的障害者と向き合いながら仕事を続けることで、だんだんとこうしたことを体得していきます。仕事がうまくいかないときや、障害者が言うことを聞いてくれないときには、自分の態度や指示の仕方を見直すようになります。そして、相手の立場にたって、相手に伝わるようなコミュニケーションをする力をつけていきます。「人のせいにできない」からこそ、自分を磨くようになるのです。(147頁)

 知的障碍者の同僚と働くためには、自分自身の発信能力が問われることとなる。そのため、知的障碍者の方々が努力して理解しようとするのと同時に、健常者の人々もまた理解してもらえるように努力するのである。いわば健全に相手を思いやり合う必要性が生じるしくみを、障碍者雇用によって成り立たせているのである。

 働くという行為は、本来、尊いものなのではないか。


2014年11月9日日曜日

【第371回】『組織力ー宿す、紡ぐ、磨く、繋ぐ』(高橋伸夫、筑摩書房、2010年)

 組織における力とは何か。組織という形式じたいに力が宿るのではなく、組織に存在する人々の力が組織の力を紡ぎ出すのである。

 重要なことは、人々は最初、手段について収斂するのであって、最初から目的について収斂しているのではないということである。まず、共通手段について収斂して「相互連結行動」を繰り返すようになり、その結果として、安定した相互連結行動サイクルが多数形成され、かつ多様な目的をもった者が、それらを使うようになることで、共通の目的へとシフトしていく。(92~93頁)

 組織人の力が結集されるためには、なんらかの相互作用が求められる。ここで著者が述べるのは、目的によって結集されるのではなく、最初は手段によって力が収斂されていくということである。

 「組織の合理性」とは、自分たちの行動を説明するのにもっともらしい歴史を事後的に作っては変える回顧的なものなのである。(64頁)

 だからこそ、組織における合理性とは、将来における目的や目標から演繹的に導き出されるのではない。そうではなく、過去の行動をもとにして現時点において回顧的に創り出すものなのである。

 ある程度の歴史をもった(つまり、生き延びてきた)日本企業のシステムの本質は、給料で報いるシステムではなく、次の仕事の内容で報いるシステムであった。仕事の内容がそのまま動機づけにつながって機能してきたのであり、それは内発的動機づけの理論からすると最も自然なモデルでもあった。他方、日本企業の賃金制度は、動機づけのためというよりは、生活費を保障する観点から平均賃金カーブが設計されてきた。この両輪が日本企業の成長を支えてきたのである。それは年功序列ではなく、年功ベースで差のつくシステムだった。(143~144頁)

 『虚妄の成果主義』のメインメッセージを著者自身で要約した箇所である。過去のパフォーマンスが将来における仕事によって報いられる日本企業の旧来的なしくみがその強みであったという。仕事の連鎖によって結果的に差がつく年功ベースの人事システムという表現が、日本の人事システムであったと著者は断言する。

 こうした組織の中における仕事を巡るダイナミズムは、カール=ワイクが大いに参考になるとして、『組織化の社会心理学』の論旨を付章で取り上げている。これが非常に参考になる。著者による要約を見てみよう。

 組織を静態として捉えるのではなく、組織化のプロセスこそを研究することの意義が存在する。組織を静態的に記述しても、組織を理解できないのである。(181頁)

 組織を研究するということは、そのダイナミズムに焦点を当てることである。静的に組織を描写したとしても、それでは組織を理解することができない。

 本来、人間の活動は多義的であり、いろいろな意味に解釈可能なものである。それが組織化のプロセスのなかで、互いの行動を意味あるものに組み立て、互いの行動の意味を確定させることができるような合意した文法を共有するようになる。(182頁)

 組織内におけるダイナミズムとはすなわち、組織における人々の交換関係に基づくプロセスである。一人ひとりが多様な存在であるため、その交換関係は多義的に解釈可能なものである。そうした多義的なものから意味を収斂して行くことが、組織においては求められるのであり、これが組織化のプロセスである。組織化は以下の三つの過程から成り立つ(187頁)。

(a)イナクトメント(enactment):経験の流れのある部分を将来の注意のために分節すること
(b)淘汰(selection):その分節された部分にある限定された解釈をあてがうこと
(c)保持(retention):解釈された断片を将来適用するために蓄えること

 こうした組織化のプロセスは、組織の中において多様な人々の間でどのように為されるのか。ワイクは以下の二つの相互連結行動を通じて説明する(192頁)。

(a)ある人の行動は、外の人の行動に依存して決まる(contingent on)のだが、この依存性(contingencies)のことを「相互作用」(interacts)と呼ぶ。ここで、相互作用が双方向ではなく一方向の概念になっていることには注意が要る。
(b)行為者Aによる行為が行為者Bの特定の反応を喚起し(ここまでは相互作用)、さらにそれに行為者Aが反応するとき、この完結した連鎖のことを「二重相互作用」(double interacts)を呼ぶ。


2014年11月8日土曜日

【第370回】Dave Ulritch et al., “HR from the outside in”

The authors suggested a several HR competency models based on their surveys to HR professionals in many countries. The original version was made at 1987, and then the model has changed several times. It is very important for us to think about the differences of each versions. 

Then, let’s see 1987’s version as below.


Next is 1992’s one. Compared to the previous version, ‘Personal Credibility’ has been newly positioned at the center of three competencies.


Let’s move on to 1997’s one as below. Before 1997 HR only cared for human issues. On the contrary, in 1997, HR has been started to regard as a player who cares for organizational culture.


What is the difference between 1997’s version and 2002’s one? At first, there is ‘Strategic Contribution’ at the center of competency model. Secondary, ‘Culture’ and ‘Change’ are integrated into ‘HR Technology’. It seems to me that this change was based on new technology especially revolutionary proceeded information technology around 2000. Innovative information technology made HR professional use new ‘HR technology’.


2007 HR competency model has changed dramatically. It is very interesting for me that credibility has been back to the center of the model. Regarding that ‘Activist’ is connected to ‘Credible’, the authors emphasize actions.


At the latest HR competency model, the authors divided competencies into three levels. 



2014年11月4日火曜日

【第369回】『氷川清話』(勝海舟、江藤淳・松浦玲編、講談社、2000年)

 およそ人間が何事にか激した時には、死ぬるのはわけもない事だらう。しかしよくよく事局の前後を達観して、十分に前後の策を立て、しかる後、従容として死に就くのは、決して容易の事ではあるまい。(141頁)

 日清戦争後の戦後処理を行った後に自殺した丁汝昌について著者が語った部分である。日本においては、徒に自死を美化する傾向が強かったし、それは今でも多分に残っているように思える。しかし著者は、それを断じて否定することに刮目するべきであろう。放言とも取れるような歯切れの良い著者の言葉を見て行こう。

 時勢は、人を造るものだ。今日いろいろの学問や、知恵のある人だちが、これから種々の困難に出会つて、実際にその学問を試したり、その心胆を練つたりなどすると、将来に起るべき、東洋の大禍乱をも、切り開くだけの人物になれるだらうヨ。(163頁)

 人物を生み出すのは時代である。変化が激しければ激しいほど、そうした時代を切り拓く傑物は生まれるのであろうし、それは一部の偉人だけではない。市井を生きる普通の人物もまた、そうした時代においては人間性を磨くチャンスがあるのではないか。

 西郷に及ぶことの出来ないのは、その大胆識と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じて、たつた一人で、江戸城に乗込む。おれだつて事に処して、多少の権謀を用ゐないこともないが、ただこの西郷の至誠は、おれをして相欺くに忍びざらしめた。(70頁)

 時代を切り拓く大人物の一人が西郷隆盛であることに異論はないだろう。著者は、幕末における人物の中でも、西郷をその第一の人物であると賛辞を送っている。その人物の大きさの一端を、大胆識と大誠意という言葉で表している。

 速ならんと欲せば大事成らず、切々事に迫るは処世の大禁物だ。虚心坦懐、徐ろに人事を尽して天命を俟つのみ。(296~297頁)

 このように一般化したものだけを引用すると迫力に欠けてしまうかもしれない。しかし、この言葉を述べた文脈は、江戸城開場の日に、そのプロセスを官軍と幕府軍の代表とで行っている時に、西郷が居眠りをしていたシーンである。大事を為した後の粛々としたプロセスは、果報は寝て待ての精神で焦らずに行う。たしかに、西郷の人物の大きさが伝わってくる箇所である。生死を賭けた場面であり、時代の帰趨を左右する場面において、うたた寝をできるのであるから、日常の厳しい場面においてゆとりを持って事に当たることくらい容易なはずだ。

 心は明鏡止水のごとし、といふ事は、若い時に習つた剣術の極意だが、外交にもこの極意を応用して、少しも誤らなかつた。かういふ風に応接して、かういふ風に切り抜けうなど、あらかじめ見込を立てておくのが、世間の風だけれども、これが一番わるいヨ。おれなどは、何にも考へたり目論見たりすることはせぬ。ただただいつさいの思慮を捨ててしまつて、妄想や雑念が、霊智を曇らすことのないやうにしておくばかりだ。すなはちいはゆる明鏡止水のやうに、心を磨ぎ澄ましておくばかりだ。かうしておくと、機に臨み、変に応じて事に処する方策の浮び出ること、あたかも影の形に従ひ、響の声に応ずるがごとくなるものだ。(197頁)

 外交の秘訣と題して著者が述べている箇所である。先述した西郷の居眠りにも通じるものがあるように私には感じられる。つまり、心を徒に動かさないということである。心を動かしてしまうからこそ、機を見極めることが難しくなったり、焦って機を掴み取ることができなくなってしまうのではないか。

 世間では、よく人材養成などといつて居るが、神武天皇以来、果して誰が英雄を拵へ上げたか。誰が豪傑を作り出したか。人材といふものが、さう勝手に製造せられるものなら造作はないが、世の中の事は、さうはいかない。人物になると、ならないのとは、畢竟自己の修養いかんにあるのだ。(331頁)

 職業柄、人材の育成についての言葉というものがどうしても気になる。著者によれば、他人によって育成されるのではなく、自分で自分を育成するということであり、その通りであろう。自分を動機づけられるのは、結局のところ自分なのだ。


2014年11月3日月曜日

【第368回】『ゾウの時間 ネズミの時間』(本川達雄、中央公論社、1992年)

 生物学の書籍を読むと、組織論や文化論といった社会科学に読み替えて類推を働かせてしまう。飛躍もあるのかもしれないが、自分にとって身になる読書であれば、それは良いものだろうと割り切って考えている。

 本書の場合も同様だ。まず冒頭で著者は、「哺乳類で体重と時間とを測って」みたところ、「時間は体重の1/4乗に比例する」(4頁)としている。体重が重くなればなるほど、その動物が感じる時間は長くなるということである。これは企業も同じなのではないか、とここで邪推が働く。つまり、ベンチャーのように小回りの利く企業体であれば時間の感覚が短く、ヒト・モノ・カネ・情報の動きは速くなる。他方で、大企業になればなるほど、もう少しゆとりをもったリソースの活用ができるようになる。それぞれに特徴があるのであるから、それぞれに適したリソース活用があるのだろう。したがって、ベンチマークをする際には差異を意識する必要がある。

 島に隔離されると、サイズの大きい動物は小さくなり、サイズの小さい動物は大きくなる。これが古生物学で「島の規則」と呼ばれているものだ。(17~18頁)

 「島の規則」とは非常にアナロジーが利きやすい概念である。興味深く読んでいると、著者自身もこれを日本という社会に置き換えて以下のように記している。

 島国という環境では、エリートのサイズは小さくなり、ずばぬけた巨人と呼び得る人物は出てきにくい。逆に小さい方、つまり庶民のスケースは大きくなり、知的レベルはきわめて高い。「島の規則」は人間にもあてはまりそうだ。(22頁)

 まさに日本という国の特質を表しているようだ。ガラパゴス化と呼ばれる理由には、生物学的な見地からの示唆もあるのだろう。

 時間が違うということは、世界観がまったく異なるということである。「相手の世界観をまったく理解せずに動物と接してきた。こんな態度でやった今までのぼくの研究はどんな意味があったのか?」と呆然とした。(220頁)

 身体のサイズによって感じる時間の早さが異なるという冒頭の気づきがあった時に著者が感じた感想である。これもまた、組織の大きさという観点で考えると面白い。つまり、日本人が感じる歴史に対する感覚と、中国人の抱く歴史に対する感覚は異なることは当たり前だ。より小さい国家である日本は、より近い過去にしか興味関心を抱かず、より大きい国家である中国は、より遠い過去まで興味関心を抱く。したがって、あの戦争における感覚の残量が、中国人よりも日本人は少ないのだろう。端的に言えば、日本人は「遠い過去の戦争の話をいつまでも言われても」と思うのに対して、中国人は「ほんの少し前の戦争のことをなかったかのようにすることを許せない」と思うのかもしれない。ここに、彼我における意識の差異の源泉の一つがあり、その結果として歴史認識による問題が起こるのではないだろうか。