1914年11月に学習院で漱石が行なった講演録である。主要な作品の発表時期からすると、『こころ』を執筆し終えた後である。現在から約一世紀前に述べられた漱石の考える個人主義に、感銘を受けたり考えさせられたりするところに、文豪としての凄みを感じさせられる。
その名講演が、自虐的なウィットに富んだ表現から始められるのは、漱石の漱石たる所以であろう。
私から見ると、この学習院という立派な学校で、立派な先生に始終接している諸君が、わざわざ私のようなものの講演を、春から秋の末まで待ってもお聞きになろうというのは、ちょうど大牢の美味に飽いた結果、目黒の秋刀魚がちょっと味わってみたくなったのではないかと思われるのです。(Kindle No. 74)
落語の噺として有名な目黒の秋刀魚を枕に置いた上で、漱石は自身の講演を卑下してみせる。自己卑下は、行き過ぎると聴いていて居心地悪いものであり、その加減が難しい。新聞小説で広く一般の人々を対象にして読者を得た漱石が、多くの日本人にとって秋の味覚である秋刀魚に自分をたとえているのは、絶妙な喩えと言えよう。
私はそれから文芸に対する自己の立脚地を堅めるため、堅めるというより新らしく建設するために、文芸とは全く縁のない書物を読み始めました。一口でいうと、自己本位という四字をようやく考えて、その自己本位を立証するために、科学的な研究やら哲学的の思索に耽り出したのであります。(Kindle No. 252)
イギリス留学時の苦労について語った箇所である。日本における文芸論を考え詰めて壁にぶつかった漱石は、個人主義の大本とも言える自己本位という概念に至る。そうした時に、それまで固執してきた文芸とは異なるジャンルへの研究と思索を開始したという。この個人的な経験を抽象化して、以下のような学生へのメッセージとして置き換える。
私の経験したような煩悶があなたがたの場合にもしばしば起るに違いないと私は鑑定しているのですが、どうでしょうか。もしそうだとすると、何かに打ち当るまで行くという事は、学問をする人、教育を受ける人が、生涯の仕事としても、あるいは十年二十年の仕事としても、必要じゃないでしょうか。(Kindle No. 305)
ここで読み取りたい重要な含意は二点ある。第一に、努力を続けていると、時に煩悶したり悩んだりすることは当り前のものであるということであろう。姜尚中氏の『悩む力』(姜尚中、集英社、2008年)でのエントリーにおいて、漱石作品をもとにして考え、思い、悩むことの意義と効用について考察したので、詳細はそちらを当たられたい。第二に、何かを深掘りして究めようとすることと、間口を広げようとすることは必ずしも矛盾するものではなく、同時並行で行なうものであるということである。もちろん、ある一時点で二つ以上のことを同時に行なうことは物理的に不可能であろう。しかし、中長期的なスパンで自身を眺めれば、意識的に両者を並行して行なうということが研究したり学ぶことであり、これが生涯学習ということの本質なのではないだろうか。
仕事をして何かに掘りあてるまで進んで行くという事は、つまりあなた方の幸福のため安心のためには相違ありませんが、なぜそれが幸福と安心とをもたらすかというと、あなた方のもって生れた個性がそこにぶつかって始めて腰がすわるからでしょう。そうしてそこに尻を落ちつけてだんだん前の方へ進んで行くとその個性がますます発展して行くからでしょう。ああここにおれの安住の地位があったと、あなた方の仕事とあなたがたの個性が、しっくり合った時に、始めて云い得るのでしょう。(Kindle No. 335)
生涯を通じて学ぶ上での重要な手段の一つとして、私たちは働く。したがって、仕事においても、私たちは一所懸命に深掘りをしながら、かつ専門を拡げていくことが重要である。それは、社会にとっても、自分自身の幸福にとっても、大事なことなのであろう。現代においては、仕事じたいの質と定義の変容の速度と幅が大きくなっているのであるから、漱石の述べる「安住の地位」とは不変のものではなく常に変わる存在である。こうした時代であるからこそ、仕事や職務という一時点における概念定義と共に、キャリアという時間軸の広い概念をも意識することが私たちにとって必要なのであろう。
前半において、個人としての生き方という側面における個人主義を述べた上で、漱石は、個人主義とは自分自身にのみ根ざしたものではないという指摘を加えていく。西洋近代が経験した個人視点からの近代化を経験していない日本人にとって、以降の漱石の指摘には刮目すべきものが多い。
第一にあなたがたは自分の個性が発展できるような場所に尻を落ちつけべく、自分とぴたりと合った仕事を発見するまで邁進しなければ一生の不幸であると。しかし自分がそれだけの個性を尊重し得るように、社会から許されるならば、他人に対してもその個性を認めて、彼らの傾向を尊重するのが理の当然になって来るでしょう。(Kindle No. 373)
近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符牒に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。彼らは自分の自我をあくまで尊重するような事を云いながら、個人の自我に至っては毫も認めていないのです。いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展して行くと同時に、その自由を他にも与えなければすまん事だと私は信じて疑わないのです。(Kindle No. 384)
個人の自由は、他者における個人の自由との折り合いをつけることを前提とした、留保つきの自由である。これが、私たちの多くが頭では分かっていても、時に見落としがちな観点ではないだろうか。そして、そうした見落としは、時代を経るに従って、つまり自由を実現する手段が増えてきている現代において、正比例的に増してきているようにも思える。
いやしくも倫理的に、ある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発揮する価値もなし、権力を使う価値もなし、また金力を使う価値もないという事になるのです。それをもう一遍云い換えると、この三者を自由に享け楽しむためには、その三つのものの背後にあるべき人格の支配を受ける必要が起って来るというのです。(Kindle No. 426)
だからこそ漱石は、自由としての個性を発揮する上で、修養を重視する。精神を修養し、自らを律すること。その前提のもとに、個人主義は社会において成立する。こうした相対的な個人主義は、国家との関わりを考える上でも有効だ。とりわけ、現代の日本という国における事象を考えれば、一世紀前に現代の日本に警鐘を鳴らすような表現が為されていることが興味深い。最も印象的な部分を最後に引用してみよう。
いったい国家というものが危くなれば誰だって国家の安否を考えないものは一人もない。国が強く戦争の憂が少なく、そうして他から犯される憂がなければないほど、国家的観念は少なくなってしかるべき訳で、その空虚を充たすために個人主義が這入ってくるのは理の当然と申すよりほかに仕方がないのです。(中略)その日本が今が今潰れるとか滅亡の憂目にあうとかいう国柄でない以上は、そう国家国家と騒ぎ廻る必要はないはずです。家事の起らない先に火事装束をつけて窮屈な思いをしながら、町内中駈け歩くのと一般であります。(Kindle No. 553)