異なる分野の碩学同士の真剣な対話はスリリングである。真剣であるからこそ、分からない点を端的かつ鋭く質問し合うために読み手にとって理解がし易くなる。福岡氏の動的平衡論も、池田氏が解説しようとする西田哲学も、どちらも興味がありながら理解が追いついていなかった。本書で徹底的に質疑応答をしてくれているため、理解が進んだように思え、今後も繰り返し読み解くことで理解を深めたいと思える一冊である。
福岡 先ほど、西田哲学はそれ自身で、すでに「科学」としても扱えると発言したのですが、今回、西田哲学に正面から向き合ってみて、私は、生物学、物理学、化学、数学、言語学、歴史学……といったさまざまな学問が西田哲学において融合しているといった印象を強くいたしました。(271頁)
福岡 科学でなんでもできると思っていたら、それは時としてとんでもない災いや誤りを招く。西田哲学はそれを戒めてくれている学でもある、と私は思います。先ほど池田先生は「自然に謙虚に」と言われたのですが、科学者のみならず、およそ研究者というものは、常に自分や自分の研究していることに対して懐疑的な視点を持つことも大切です。西田哲学は、そうしたことをあらためて私たちに思い起こさせてくれる学でもあると思います。(282頁)
徹底的な対話を経て西田哲学と自身の動的平衡との統合的理解を得た福岡氏が最後の対談で述べた一言に、学際研究の必要性が端的に示されているように思える。近代西洋科学が批判的に捉えられる存在というわけではない。しかし、西洋科学中心で物事を捉えすぎることによる危険性を著者たちは指摘し、様々な学問領域を統合し、自然を中心に据えて謙虚に物事を捉えることの重要性を説く。
冒頭で著者たちが導き出したのは、自然に還ることの必要性である。
福岡 ヘラクレイトスが「万物は流転する」とか、「相反するところに最も美しい調和がある」と言ったように、自然本来のあり方をとらえようとする立場がある(ピュシスの立場)。一方、それを忘れて、いわゆる「存在者」というものだけでものを語ろうとする立場がある(ロゴスの立場)。プラトン以降の哲学はロゴスの立場に基づくもので、それが続いてきたことに対する一種のアンチテーゼとして、西田は「ピュシスの世界に還れ」という旗印を言わば行間に掲げて、独自の考えを深めていった。(47頁)
近代西洋科学をロゴスの立場とし、そこからだけ眺めるのではなく、自然に立ち返ることが重要であると両者は述べる。その上で、福岡氏が着目している生物と無生物や内側と外側の「あいだ」の概念が、西田哲学における絶対矛盾と近しい関係にあることが述べられている。
続いて、ピュシスを基にして、時間と空間をどのように捉えるかというテーマへと両者の対談は進む。
池田 そもそも時間と空間というものを考えることができなくなってしまうんですよ。時間と空間というものはまったく矛盾していますから。片一方は流れていくものだし、もう一方は流れない。しかし、現実においては時間と空間というのは一つになっている。
そのことを「(絶対)矛盾的自己同一」と西田は言っているわけです。矛盾したものが一つになっている、と。(89頁)
池田 そういう矛盾しているものが自己同一(している)と説かれるわけですけれども、このことを言葉を変えて、「逆に限定されている」とか「逆限定」とも言うんです。
ですから、「逆限定」と「絶対矛盾的自己同一」というのは、ほとんど同じことを言っている概念なのです。(89頁)
時間と空間という捉え方は、日常生活を送っていると当たり前の概念として何気なく認識してしまう。ある場面を表現する際に、緯度と経度で空間を同定し、年月日で時間を同定することでその場面を把捉できているように思える。しかし、本来的に流れの概念である時間を年月日で捉えた場合にはそれは「時刻」であると著者たちは指摘する。
したがって、私が上述したような認識は時間と空間とを一つのものとして捉えられていないものであり、必要とされるのが逆限定という概念である。この概念の難しさは福岡氏ですら本書の対談内で苦闘しているので私自身も分かったとは容易には言えない。しかし、苦闘の末に至った福岡氏の以下のまとめは私たちの理解を促すうえで役に立つだろう。
福岡 逆限定においては、「環境が年輪を包む」ということは同時に「環境が年輪に包まれる」ということも含んでいて、それは「包む・包まれる」という言い方で、ーーこれは「作る・作られる」という言い方に置き換えてもいいのかもしれませんがーー、つまり、ピュシスにおいては、環境が年輪を作ると同時に環境は年輪によって作られている、と。(134頁)
池田 環境が樹木を「包みつつ」樹木に「包まれ」、樹木は、場に「包まれつつ」場を「包む」という逆限定的な関係がここには(見えないながらも)現れているのですが、「逆限定」あるいは「絶対矛盾的自己同一」とはつまり、環境と樹木の「あいだ」のことであって、そこにおいて環境と樹木とは相互に否定し合っています。こうした相互否定関係のうえに成り立つピュシスの働きというものが「歴史的自然の形成作用」ということになるのです。(144頁)
樹木の中にある年輪と、樹木を取り巻く環境との相互作用についてここでは述べられている。ある一時点をスナップショットで収めると、樹木とその周囲の環境というものはたしかに存在する。そうした空間における両者の存在に、時間という流れを加えると、お互いに影響を与え合う関係性が見えてくる。ある一時点において観測したものを基に私たちは思考を進める傾向があるが、流れという時間を想定して時間をも捉えることが必要なのである。こうした時間論について、対談のテーマは移っていく。
福岡 個体は絶えず交換されるジグソーパズルのごとき細胞によっておぼろげな全体としても存在している、ということが西田においても言われていると思います。
ですから、「多の自己否定的一」という表現について、「多」というのは多細胞の「多」であり、細胞の構成要素であるというふうに考えると、その構成要素が自己否定している、と言われているわけです。絶えず生まれ変わる。壊されながら作られる。分裂しながら死んでいくのですけれども、また新たなものが生み出される。そういった自己否定性の中に「多」というものはある、と読むことができます。
けれども、それが同時に「一」であるところの全体というものを構成していて、さらに「一の自己否定的多」としてその逆の働きにも言及されています。そして、「多の自己否定的一」が時間的であり、「一の自己否定的多」が空間的である、と続く。つまり、ここで時間と空間が対比されているわけですけれども、このとき西田先生が言われている時間というのは、合成と分解の繰り返しという動的平衡によって生ずる流れとしての時間ですよね。(156~157頁)
池田 時間を考える場合に、多くの人は過去から未来へという方向に着目し、未来から過去へという反対の方向にはほとんどの人が目を向けることがないわけですけれども、引用文中に「作られたものから作るものへ、作るものから作られたものへ」という表現がありますね。「作られたもの」というのは、要するに過去のことです。「作るもの」というのは未来のことなんですけれども、世界においては両者が絶えず、逆限定的に作用しているんです。
で、こうした矛盾的自己同一というあり方がすべてにわたって徹底していくところに西田の論理性が現れているのですが、従来、西洋哲学にはこうした論理は存在しなかったわけです。(160~161頁)
絶対的矛盾的自己同一における時間と空間との関係性は、西田哲学における円環的な時間論へと繋がっていく。
池田 西田では、それは絶対矛盾の自己同一ということになり、ここにおいて、福岡さんの「先回り」(動的平衡)と「絶対矛盾的自己同一」とが完全に重なることになるのです。
そして、時間というのはただ直線に進むむだけじゃなくて、円環する性格もあるはずだ、ということを西田は明言しています。
「先回り」という概念が西田においてもしもあったとすれば、直線じゃなくて、円環……、戻って来るという、そういう時間について語られるものでなければならない。そう西田は暗に語っているわけですね。(218~219頁)
ここまでざっと著者たちの対談で印象に残ったところを関連付けながら引用してきた。しかし、正直に言えば、改めて読み直してみるとあまり理解できていないようである。もう少しじっくりと読みたいと思う。
その際には、本書で述べられてきた生命というものを、企業組織やそこで働く社員へのアナロジーとして捉えられないかと考えている。というのも、しばしば、企業組織は生命体として捉えられる。そうであれば、ピュシス、時間と空間の「あいだ」、絶対矛盾的自己同一/逆限定、円環する時間論、といったものは、企業組織でも援用できるのではないかと考えるからである。機会を作って、もう少しじっくりと取り組んでみたい。