2019年12月14日土曜日

【第1000回】『経験学習リーダーシップ』(松尾睦、ダイヤモンド社、2019年)

 経験学習という概念を、実務家もイメージしやすく丁寧に解説された名著『「経験学習」入門』を筆者が出版されたのは2011年でした。経験学習という言葉を聞くと、個人での経験獲得と振り返り、その個人に気づきを促す上司やメンターによるフィードバックといった、個のイメージが強い印象です。

 しかしながら、本書のタイトルには、経験学習の後にリーダーシップという概念が続きます。意外な感を抱きながら読み始めると、私と同じような読者が多いことを想定されていらっしゃるのか、題名にリーダーシップという言葉を用いた理由を冒頭で解説されています。
「OJT」や「コーチング」ではなく「リーダーシップ」という言葉を使ったのは、育て上手のマネジャーが、1対1の指導だけでなく、部下に任せる仕事を創り上げたり、職場全体の運営も工夫しているからです。(3頁)

 個人が自身で成長することには限界があり、また育成責任を職制として負う個人が個人を育成することにも限界があります。そのような現場のリアリティを踏まえて、職場全体での面による育成が着目され始めたのは、中原淳先生の『職場学習論』あたりからでしょうか。その流れを受けて、経験学習も職場全体で行うものであり、経験を基に学習する職場づくりを行うことがリーダーには求められると筆者はしているのです。

 筆者が行った育て上手のマネジャーを対象にした調査で浮かび上がってきたキーワードは「強みを引き出すこと」でした。強みにフォーカスを置いた書籍は昨今多いですが、著者は「育て上手のマネジャー調査を開始した段階では、「強み」に注目していたわけではありませんでした」(9頁)としています。調査の結果として、経験学習サイクルを回すことを支援するドライバーとして、強みが出てきたという点には興味深いものがあります。

 さらに、強みに着目する大切さを深掘りする過程で、心理学・経営学・哲学という三つの領域を挙げ、哲学においては西田幾多郎が取り上げられているところに新鮮さを感じます。強みというと個人という単位を捉えますが、西田を引きながら社会や人類一般を射程に置いて以下のように述べます。

その人本来の強みである「個人性」を生かして、社会や人類のために役立てたときに真の善となるという考え方です。(14頁)

 個人としての善を基点に、社会における善へと拡げていくことが、強みを考えるうえでの重要なポイントのようです。こうした個人の強みを引き出しながら育て上手のマネジャーが行う指導の要諦を以下のようにまとめられています。


① 部下の強みを探り、成長ゴールで仕事を意味づける
② 失敗だけでなく成功も振り返らせ、強みを引き出す
③ 中堅社員と連携しながら、思いを共有する

 それぞれのポイントについては、事例を交えながらわかりやすく解説されています。部下を持つ管理職の方々、育成に関心のある中堅社員の方々にぜひ勧めたい一冊です。

2019年11月2日土曜日

【第999回】『ある男』(平野啓一郎、文藝春秋、2018年)


 タイトルが意味深であるが、読み進めていくとなるほどと思え、これ意外には想像できないほどのタイトルである。著者が2010年頃の作品からテーマとしてきた分人主義とは趣が異なり、戸籍を売買することに伴う人格の有りようが問われる。「人格」を扱う本作は、分人主義からの試行的発展を目指す著者の方向性が示唆されているのかもしれない。

 彼はグラスの底に残った、もう気の抜けてしまったビールを飲んで、唇を噛み締めた。そして、今のこの人生への愛着を無性に強くした。彼は、自分が原誠として生まれていたとして、この人生を城戸章良という男から譲り受けていたとしたなら、どれほど感動しただろうかと想像した。そんな風に一瞬毎に赤の他人として、この人生を誰かから譲り受けたかのように新しく生きていけるとしたら。(319~320頁)

 本作でも、思わずため息が出るような美しい文体で物語が展開される。物語自体の興味深さとともに、その文章の美しさにも魅了される一冊である。

【第995回】『決壊(上)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)
【第996回】『決壊(下)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)

2019年10月26日土曜日

【第998回】『リーダーシップからフォロワーシップへ』(中竹竜二、阪急コミュニケーションズ、2009年)


 早稲田ラグビーを復権させた清宮克幸氏を引き継いで監督となった著者。前任者の華やかな有言実行とは異なるスタイルは、一見して意外であったが前任者に劣らない卓越した成果を継続して出し続けた。その秘訣を明らかにした本書のエッセンスは、このタイトルに端的に現れている。

 全員がリーダーと同じ気持ちでいること。与えられたり指示されたりするのを待つのではない。最終的に決断を下すのはリーダーだけれど、常にフォロワーもリーダーと同じように主体性を持って考える。これは私の理想とする組織でもある。(106頁)

 役割としてリーダーとフォロワーは相対的なものとして一つの組織の中に現れる。もちろん、ある人物が固定的にリーダーであり、フォロワーであるということはない。相対的な役割によって、ある場面ではリーダーシップを発揮する人物が、違う場面ではフォロワーシップを担うのである。だからこそ、ある特定の状況において、リーダーとフォロワーとは意識を共有し両者ともに主体性を持って考えて行動することが求められるのである。

 主体性を持ってどのように行動するのか。行動する際の拠り所として、強みを中心にして自身のスタイルを構築し続けることを著者は主張する。さらには、リーダーとしての自分自身がスタイルを創るだけではなく、リーダーとしてフォロワーのスタイルを構築するために全力を注ぐことを提案する。

 このように相対的にリーダーシップとフォロワーシップが生じるのであるから、組織にはリーダーが複数いても良いことになる。

 組織の区切り方によってリーダーというものは変わっていく。(中略)
 その原理を積極的に応用したのがマルチリーダー制である。常に複数のリーダーを置くことで、誰がリーダーになってもフォロワーはそれに順応できる組織風土を作るための体制である。(177頁)

 リーダーが組織に複数いても良い、というよりも複数いることによるメリットがここでは提示されており、納得的だ。本年のラグビーW杯の日本代表でも複数リーダー制を用いていたという。だからこそ、リーチ・マイケルだけに頼らず、彼が試合に出ていない場面でもチームとしての力を発揮できたのであろう。

【第570回】『オシムの言葉』(木村元彦、集英社、2005年)

2019年10月22日火曜日

【第997回】『現代語訳 論語と算盤』(渋沢栄一、守屋淳訳、新潮社、2010年)


 本書が流行する意味がよく分かり、また流行していることに安心感をおぼえる一冊であった。正直、渋沢栄一の『論語と算盤』を以前読んだ時にあまり頭に入ってこなかったのでそれほど期待していなかった。ただ訳者の大胆な現代語訳は、今を生きる私たちにとって、渋沢だったらどのようなニュアンスで伝えたかという意図で書かれたものであり、すんなりと入ってきたようだ。

 渋沢はなぜ『論語と算盤』を著したのか。訳者の解説によれば「「実業」や「資本主義」には、暴走に歯止めをかける枠組みが必要だ」(9頁)として、渋沢の座右の書であった論語を解説したそうだ。日本の資本主義の父とも言われる著者が、論語をその基盤に置いているのだから、現代の資本主義社会を生きる私たちの血肉となる内容となっていることに驚きはないだろう。

 特に興味深いと感じたのは、仕事の中における趣味に関する考察の部分である。

 仕事をするさい、単に自分の役割分担を決まり切った形でこなすだけなら、それは俗にいう「お決まり通り」。ただ命令に従って処理するだけにすぎない。しかし、ここで「趣味」を持って取り組んでいったとしよう。そうすれば、自分からやる気を持って、
「この仕事は、こうしたい。ああしたい」
「こうやって見たい」
「こうなったら、これをこうすれば、こうなるだろう」
 というように、理想や思いを付け加えて実行していくに違いない。それが、初めて「趣味」を持ったということなのだ。わたしは「趣味」の意味はその辺にあるのではないかと理解している。(106頁)

 趣味一般としてはやや古風な考え方かもしれない。しかし、仕事において工夫をしてみる、意義を自分なりに考えてプラスアルファしてみる、という意味ではこれほど腑に落ちる考えはないのではないだろうか。

 同一労働同一賃金の流れの中で、日本企業も職務主義へと舵を切ろうとしている。総論としては反対はしないが、そこで失われるものは一つひとつの仕事に意味を見出そうとしたら、能力を蓄積しようという働く個人の営為になりかねない。しかし、渋沢の上記のような考え方を、私たちは持ち続けることが、日本資本主義の叡智として重要なのかもしれない。

 自分を磨くことは理屈ではなく、実際に行うべきこと。だから、どこまでも現実と密接な関係を保って進まなくてはならない。(134頁)

 個人の営為として持ち続けることは、勉強するために勉強するのではなく、実践と結びつけようとしてインプットすることである。現代の日本社会には、美辞麗句を施して見てくれをよくするだけの「学びごっこ」のいかに多いことかと、渋沢なら慨嘆するかもしれない。

【第693回】『論語』(金谷治訳注、岩波書店、1963年)
【第662回】『ドラッカーと論語』(安冨歩、東洋経済新報社、2014年)

2019年10月19日土曜日

【第996回】『決壊(下)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)


 いやはや予測を裏切る展開となった。主人公を最後のシーンへと誘ったのは一体なんだったのか。いかようにも解釈できる余韻を持たせた結末であり、読者は色々と考えることができる。悪はなぜ生まれ、伝播していくのか。この物語を読んでいると、どうしても悲観的に考えてしまう。

 自分の中に堆積していた様々な記憶の断片が、何か大きな棒のようなものを差されて、力任せに一掻きされたように、底から身を翻しつつ湧き起こっては、しばらく渦を巻きながら意識の内側を巡り、その色を混濁させた。(103頁)

 切れぎれの、今にも夢の向こうが透けて見えそうな昨夜のうっすらとした眠りは、どうにか掻き集めても、三時間程度の分量にしかならず、その頼りない手応えの分だけ、体には重みが残った。(440頁)

 どちらも主人公の内面を描写している。彼が抱える悩み、葛藤、暗部を、読者があたかも目の前に想起できるようだ。

【第995回】『決壊(上)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)

2019年10月14日月曜日

【第995回】『決壊(上)』(平野啓一郎、新潮社、2011年)


 インターネットの匿名性による犯罪。私が知る限りでは、著者は推理小説を書く方ではない。そのため、中盤以降から話題の中心となる犯罪を犯した人物は想像に難くない(誤解かもしれないが)。ある予期を持って読み進めることになり、誰が犯人なのかというよりも、なぜ殺人を犯すのかという点に関心が湧く。

 プロットとは直接関係ないが、思わず首肯したのがこちら。

 他者を承認せよ、多様性を認めよと我々は言うわけです。しかし、他者の他者性が、自分自身にとって何ら深刻なものでない時、他者の承認というのは、結局のところ、単なる無関心の意味でしょう。(453頁)

 新しい形の犯罪であるにもかかわらずやや古い印象を抱くのは、本書のハードカバーが出版されたのが2008年だったからだろうか。その後に、FacebookやInstagramといった実名でのSNSが主流になったために、インターネットの匿名性というものに古いイメージを持ってしまう。

【第985回】『考える葦』(平野啓一郎、キノブックス、2018年)
【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)

2019年10月13日日曜日

【第994回】『64(下)』(横山秀夫、文藝春秋社、2015年)


 この展開はすごい。下巻の中盤あたりからラストに向けた畳み掛けが見事。上巻から散りばめられた様々なエピソードが、これがそれに繋がるのかと感嘆するようにこれでもかと結びついていく。組織とは何か、正義とは何か、報道による知る権利とは何なのか。人間ドラマを通じて様々なことを考えさせられる。

<ひと月で慣れる。ふた月で染まる。人事は例外なくそうだ>(128頁)

 「人事」という機能に対する皮肉な台詞もそうだよなと思わさせられる。

 事件は何度でも人を試す。暗がりを、三上は一歩一歩踏み締めて歩いた。(396頁)

 ネタバレにならないように書くと、事件が新たな事件を生み出す。そこには様々な感情が綯い交ぜになり、誰が何の権利で誰を裁くのかという究極の難問が生じる。そもそも、人は人を裁けるのだろうか。裁けるとしたら、その根拠は何なのだろうか。

【第993回】『64(上)』(横山秀夫、文藝春秋社、2015年)

2019年10月12日土曜日

【第993回】『64(上)』(横山秀夫、文藝春秋社、2015年)


 警察機構を題材とした小説であり、暗い印象のある書き出しから始まる。冒頭からしばらくは人物同士の関係性がわかりづらいが、次第に明らかになりかつ物語に引き込まれているのは、さすがの展開力と言え、文句なしに面白い。

 三上は階段の踊り場に立ち尽くした。
 上の階は刑事部。下は警務部。自分の立っている場所が、そのまま己の置かれた立場に思えた。(160頁)

 元々は刑事部の出身であり、自分自身を生粋の刑事だと思っている主人公。しかしながらキャリアの初期の段階で広報部というスタッフ部門にわずかながら経験し、現在も広報部という警務部側に色分けされる立場で働く。その葛藤が文章によく現れている。

 三上は運転席のウインドウを少し下げた。冷気が頬を撫でる。わずかばかりの葉を残した歩道の冬木立が北風に鳴いている。(313頁)

 ここの表現もまた、いい。主人公の置かれる厳しい環境が、情景に描写されている。

【第905回】『空飛ぶタイヤ』(池井戸潤、講談社、2009年)

2019年10月5日土曜日

【第992回】『ウィトゲンシュタイン 論理哲学論考』(古田徹也、角川書店、2019年)


 哲学書は難しい。その中でも『論理哲学論考』は難解だ。しかしあまりに有名な本であり、何とか少しでも理解してみたい。こうした願望に答えてくれる、『論理哲学論考』の入門書的解説本が本書である。

 元々の書籍が難解なのだから平易に解説するのにも限界がある、と思うなかれ。読み応えはあるものの、理解はできるレベルである。何回か読み直しながら、「論考を理解した!」と言えるまで繰り返して読みたい良書である。ウィトゲンシュタインに挫折した全ての方に推奨したい。

 世界の具体的なあり方を描き出す命題はすべて、要素命題が操作によって結合したものとして理解できる。そして、要素命題を構成する名はそれぞれ、世界のなかの何らかの対象(物)に対応する。それゆえ、「経験的な実在は、対象の総体によって限界づけられている。その限界はまた、要素命題の総体において示される」(五・五五六一節)と言いうる。(245頁)

 論考は、世界の全てを対象にして哲学というアプローチで表し尽くそうとしている。そのスコープのすごさは、上記のような記述に現れている。まだ理解したとはとても言い切れない。しかし、その面白さには気づいたように思える。読み直して少しずつ理解していきたい。

【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)

2019年9月29日日曜日

【第991回】『勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧幻の三連覇』(中村計、集英社、2016年)


 2005年に東北以北の学校による初優勝を果たし、2006年には二年生エース田中将大の活躍で二連覇。そして2007年には早実との決勝再試合での死闘。ベンチから戦況を眺める香田監督の姿は印象深かった。

 「2.9連覇」とも言われる偉業を成し遂げた駒大苫小牧高校は、香田監督が辞めてから甲子園で上位に進出することはなくなり、また香田監督がその後どのようなキャリアを選択したのかも知らなかった。本書は、あの2.9連覇からほぼ十年が経った後に、著者が香田監督への丹念な取材によって描き出したドキュメンタリーである。

 傑出した実績を出したカリスマ的な有名監督を描く作品では、全ての打ち手がハマったかのような描かれ方をされることも多い。しかし、本書では、香田監督の悩みや葛藤もつまびらかにされ、出る杭が打たれる日本の社会や組織にありがちな現象も描かれるためにリアリティがある。時間が経ったからこそ描きだすことができた素晴らしいノンフィクション作品と言える。

 2007年の、あの田中将大が主将を務めた世代とのぶつかり合いと、卒業に至るまで緊張した関係が崩れなかったという事実には驚かされる。また、卒業しても関係が改善しなかったという場面ではハラハラとさせられた。卒業から約一年後に大団円を迎える場面では感動すら覚えた。

 カリスマといえども人間にすぎない。だからこそ、ドラマが生まれるのかもしれない。


2019年9月23日月曜日

【第990回】『葬送 第二部(下)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 第一部の上巻でショパンの葬儀のシーンが描かれるため、私たちはショパンの死を予感させられながら読み進める。彼が死に対して抗いながら、その中で人々と静かに交流する最終盤では、潮騒、奔馬、豊饒などといった三島の名作のタイトルがさりげなく文章に散りばめられる演出も見事だ。

 病床に伏せるショパンがドラクロワに対して語りかけるシーンでは、才能に対する興味深い考えが提示される。

「君はきっとそれに打勝つことが出来ると思う。……」と言った。そして、その一瞬だけ海が凪いだように呼吸が静かになって、「……君は、自分の才能を、人には得難い或る特権的な穏やかさの中で楽しむことが出来る。それは、熱烈に名声を追い求めるのに劣らない価値のあることだよ。……」と言った。(55頁)

 才能には、輝かしいものや異彩を放つものといった華やかなイメージがある。しかし、ショパンが語るような静謐な特質も才能には含まれるのかもしれない。このように考えれば、天才と呼ばれるような一部の人たちが持つ特別なものではなく、ごく普通の私たちが才能というを考えることもあり得るのではないだろうか。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月22日日曜日

【第989回】『葬送 第二部(上)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 静かに、淡々と、しかし確実に物語はもの悲しい展開へと向かうようだ。第一部の上巻の冒頭でショパンの死後の情景が描かれるために一つの予感を持って読者は物語を読み進める。そのために徒に暗い展開を予期し過ぎてしまうのかもしれない。

 或る意味で、天才とは一つの病です。僕には僕の天才の過剰は苦痛です。それは泉の規模を知らず際限もなく溢れ出る湧き水のようなものです。……吐き出しても、吐き出しても、……すぐに飽和してしまう。……僕はその窒息感に常に苛まれています。苦しくて、どうにも仕方がなくて、……いっそ枯渇するまで吐き出してしまうことが出来たならば、どれほどの心の安寧が得られることでしょう。(237~238頁)

 ドラクロワが自身について長く語るシーンである。私たち<普通>の人間は、良質なアウトプットを継続できる人物を天才として尊敬し、羨望の眼差しで眺める。あのようになってみたいと思う。

 しかし、月並みな言い方となってしまうが天才には天才の悩みがある。スランプや停滞といったものではなく、自身の内から創意やアイディアが湧き出すぎると、常に満足感が得られないのかもしれない。私たちは何かをアウトプットするとそれに心地よさを感じるものだが、天才には、その後にもまた新たなアウトプットの欲求が訪れて、余韻に浸れないのかもしれない。それはそれで苦痛だろう。

 時は本の頁を飛ばし飛ばし乱暴に捲ってゆくようにして慌しく過ぎ、二箇月が経って四月二十三日に憲法制定議会の最初の普通選挙が行われると、個々の人間がこの革命によって何を得、何を失ったかが一先ず明らかとなった。(187頁)

 この時間の経過の描写がすごい。物語の展開とは直接的に関係がないとしても、こうした表現に出会うとうれしくなる。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月21日土曜日

【第988回】『葬送 第一部(下)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 上巻に続き、ドラクロワとショパンとの交流を軸にしながら物語は進む。ショパンとその愛人サンド夫人との関係が破綻へと至る一連のプロセスがもの悲しいためにトーンとしては暗い。しかし、時に烈しく時に静かに流れる展開は読み応えがある。

 私たちはなぜ小説を読むのか。小説とは、様々な人物の様々な感情が発露し、その関係性もまたダイナミックなものとなる。日常生活において私たちの多くが経験できないような場面が多いが、どこかに共感できる足がかりがある。ために登場人物のある特定の感情や行動に寄り添いながら私たちは物語を我が事のように思い浮かべながら読む。こうした共感と投影の作用が私たちに浄化をもたらすから、小説を読みたいと思うのかもしれない。

 失望が、丁度握り締めた真綿が開いた掌で膨らんでゆくようにして静かに胸に広がっていった。今日は何もしなかった。これから出来る仕事といえば、素描くらいのものだ。そう思うと、今し方の愉快な気分が嘘のように霧散してすっかり沈み込んでしまった。(7頁)

 全般的にシリアスな展開の中でも、冒頭にはこのような日常的に仕事に対して私たちが共感できるような日常が描かれる。ドラクロワが、他者と会うことに長く時間を要しすぎて慨嘆する気持ちは、私たちの多くが共感できるものではないだろうか。

 ショパンは、徐に懐から手紙を取り出すと封筒を覗きながら便箋を引き出して手中に広げた。紙の擦れ合う音が耳に硬く響いた。僅か数秒のことであったが、彼はその間の緊張を耐え難く感じた。窓から風が吹いて膝の上の封筒が飛ばされそうになった時、咄嗟に自分でも驚くほど大袈裟な身振りでそれを押さえつけた。そして、急激に速まった心拍に自分の狼狽ぶりを思い知らされた。(294頁)

 サンド夫人との別離が色濃く予感される最終盤の一コマ。心象風景がほとんど描かれないにも関わらず、ショパンの行動と背景の描写によって、彼の気持ちが十二分に伝わってくる。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月16日月曜日

【第987回】『葬送 第一部(上)』(平野啓一郎、新潮社、2005年)


 美しい文体に触れると心象風景に現れるビジョンに焦点が合い、現実世界が遠景となる。ために、物理的に疲れていたり精神的に疲弊している時にはホッと一息をつける。そうした美しい文章を読みたい折には、夏目漱石、三島由紀夫、村上春樹、そして著者のいずれかの本を読むようにしている。

 本作では、十九世紀パリを舞台にドラクロワとショパンとの親交を基本軸に、様々な人物がその補助線として二人と交流を重ねる様が描かれる。抑制の利いた穏やかな筆致の中にも著者の美しい文体が物語を構成していく。静かな情景の中にも、登場人物の心の襞が描かれているようだ。

 日常のあらゆる記憶から逃れたところで、気がつけば数時間もの時を過ごした。時間の経つのがまるで感ぜられなかった。あっと言う間だった。それでも、知らぬ間にからだを抜けていった時間の澱が、少しずつ足腰に溜まって痛みを発し始めていたので、彼は自分が、何時までもここに留まっている訳にはいかないことを否応もなく感じさせられた。名残惜しいが長居しすぎたようにも思った。最後に見た麒麟の不自然に伸びた頸の格好が、興を醒ませて、彼に帰る決心をさせた。(116頁)

 美しい文章を読むことは、美しい絵画の前で時間を過ごすことと近い。美術館を訪れ、時間を全く気にせずに没頭する。その行為は、日常から時間的にも空間的にも距離を置くことにほかならない。そうすることで、日常に改めて入っていこうという気力が自ずと湧いてくる。

【第774回】『マチネの終わりに』(平野啓一郎、毎日新聞出版、2016年)
【第168回】『空白を満たしなさい』(平野啓一郎、講談社、2012年)

2019年9月15日日曜日

【第986回】『自由のこれから』(平野啓一郎、K Kベストセラーズ、2017年)


 最近は著者の論考にはまっている。小説はもともと好きであったが、小論も考えさせられて面白い。イノベーション、法律、遺伝子工学、といった分野の碩学との対談はスリリングであり、そのまとめとしての自由に対する論説もぜひ読んでみてほしい。

 『決壊』に始まり『空白を満たしなさい』へと至る第三期と呼ばれる作品群で著者がテーマにした分人主義を基に、著者は自由へのアプローチを以下のように述べる。

 分人主義的に複数の組織やコミュニティに帰属することが可能となれば、私たちは、個々の関係性において、より多くの自由を手に入れることだろう。
 なぜなら、全人格的にある関係性に巻き込まれることが避けられ、一つの分人の経験を他の分人を通じて相対化できるからである。(162頁)

 分人主義とは、端的に言えば、唯一の「この私」としての個人ではなく、多様な他者との多様な関係性によって個人が分割された「文人」の相対としての私、という考え方である。社会学の領域でいえば、ジンメルを想起されれば良いだろう。

 私たちは、自分が巻き込まれている一つの状況、その関係性の中での分人を相対化する分人を常に複数、所有すべきである。ある分人においては、他に選択肢がないように思えていることも、他の分人を通じ、またその関係者を通じて相対化することで、必ずしも必然性がないことが見えてくる。(170頁)

 分人の総体としての私という考えを用いれば、仮に一つの分人が他者から否定されて自己効力感を失ったとしても、他の分人に依拠すればよいとなる。つまり、特定の自己効力感を失う事態にあったとしても、ほかの分人によってその分人を相対化し、全体としての自己肯定感を育む、という考え方と言えるのではないか。

【第445回】『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(平野啓一郎、PHP研究所、2006年)
【第240回】『ジンメル・つながりの哲学』(菅野仁、日本放送出版協会、2003年)

2019年9月14日土曜日

【第985回】『考える葦』(平野啓一郎、キノブックス、2018年)


 著者の小説を好きな方にはぜひ勧めたい一冊である。三島を好み、また漱石よりも鴎外が好きであるなどといった個人的な見解も随所に見られる。著者が何を好み、何に影響を受けてきたか、ということを知ることは、著者の作品の見方にも影響し、より深く理解することにもつながるのではないか。

 興味深い点は多々ある。ここでは、著者自身が自らの著作である『空白を満たしなさい』をイメージして書いている箇所を引いてみる。

 私自身が近年拘っている話だが、自殺者は、彼の生がいかに複雑な起伏に富んでいたとしても、自殺という最後の決定的な行為によって、「自殺をした人」となり、更には「自殺をするような人」だったと回顧されてしまう。非常にしばしば、彼の生きた軌跡は、その一点からのみ遡って整理されることになる。無論、英雄的行為に及んで広く社会の賞賛を得たならば、彼はつまりはそういう人間だと認知されよう。その後、そうではなかったという暴露話が続くのもお決まりである。しかし、私はそうした単純な人間の見方に、さすがに飽き足らない。(78~79頁)

 近代市民社会におけるアイデンティフィケーションは、それ以前の出自によってアプリオリに決まるのではなく行為の積み重ねによってアポステリオリに構成されると喝破する。こうした行為によってその人間の人間性が決まるということは、他者から見て際立つ行為が、その人物の人間性を規定するということになる。その結果が上記の引用箇所だ。

 行動が個人を規定すると考えると、一つの目立つ行動を以ってその人物を良くも悪くも評価してしまう。この陥穽に陥らないように謙虚な姿勢を保つことが近代を生きる私たちには求められるのではないだろうか。

【第277回】『私とは何か 「個人」から「分人」へ』(平野啓一郎、講談社、2012年)
【第445回】『本の読み方 スロー・リーディングの実践』(平野啓一郎、PHP研究所、2006年)

2019年9月8日日曜日

【第984回】『NHK「100分de名著」ブックス 荘子』(玄侑宗久、NHK出版、2016年)


 荘子の良さを存分に伝えてくれる本書。さすがは「100分de名著」のシリーズと言えよう。端的にポイントを説明してくれており、かつ荘子を愛する碩学が魅力を語ってくれているために引き込まれる。ようやく、荘子の最適な入門書にたどり着いたようだ。

 さまざまな民族や宗教による考え方は非常に相対的なものであり、何かが絶対的に正しいというものではないーーと、徹底的に笑いながら話しているのがこの『荘子』です。(7頁)

 儒教をはじめとしたさまざまな生き方や思想を否定しているかのように見える荘子。その本質は、絶対的なものは存在しないとして全てを相対化しようとするという考え方が根幹にあるという。

 では、人間の意志による主体性を否定する荘子は何を重視するのか。

 自らの意志で動いたり変化したりするのではなく、周りが変化したので私も変化した、というのがよいと言うのです。まさに受け身です。現代の日本語でも使われる「やむをえず」という言葉の出典はまさにここなのですが、今ではネガティブな意味で使われるこの言葉が、完全に肯定的な意味で使われています。(51頁)
 「しあわせだなあ」というのは、思わぬことが起こったけれど、なんとか仕合わせることができてよかった、ということ。自分の意志で事前に立てる計画とは無縁の世界、完全に受け身の結果なのです。(52~53頁)

 まず受け身の考え方が重視されていることがわかるだろう。その上で、完全に自分自身を周囲に合わせて状況の変化に委ねるということではないということに注意が必要なのではないか。というのも、周囲で起こったことを受容しながらも、それを自分の関与によって「仕合わせる」ことが重要だとしているのである。

 ここには西洋における主体性とは異なる考え方が見出されるのではないか。

 西洋の「自由」が「みずから」勝ち取るものである一方で、「みずから」ではなく「おのずから」に任せる境地というものがたしかにある。それが、荘子の語る「自在」です。(78頁)

 自然とは「自ずから然り」であるといわれる。ここにおける「おのずから」には、主体性に基づくのではなく、「一切の人為を離れて「私」を無くし、命の全体性に戻る」(78頁)ことで自分と自然とが一体になるという世界観が現出している。

 荘子が目指すのは「おのずから」の変化に従うことですが、人間はどうしても「みずから」考え、行動しようとする生き物ですから、放っておくと「みずから」はどんどん「おのずから」から離れて行ってしまう、ということです。(120頁)

 しかし、わたしたち人間のいわば本性として「みずから」の発想が占めがちになると著者はしている。では「みずから」に囚われないようにするにはどうしたらよいのか。ここではフローに近い考え方が荘子でも展開されている。

 大切なのは、理性が捉えた自己のイメージがここでは次々に打ち破られていく、ということです。何が「自分らしさ」なのかも、すぐに分からなくなります。(122頁)

 手や身体を動かし没頭することで、自分自身を頭で理解しようとするという静的な自分像を壊れていく。そのための概念装置が、荘子の教えなのではないだろうか。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)

2019年9月7日土曜日

【第983回】『流されるな、流れろ!』(川崎昌平、洋泉社、2017年)


 荘子をたのしみたいが、なかなか内容が入ってこない。何冊か読んでもその状況が改善されず苦労している。カジュアルな解説本であり、エッセーに近い本書は、荘子に対して新しいアプローチを試せるいい機会だった。

 感情をぶつける相手がいなければ、「私」という人格すらなくなってしまう。「私」がいなければ、そもそも感情すら湧きようがない。喜怒哀楽も不安や悲しみも、それらが変化することも、すべて「自然」の流れなのだから、気にする必要はない。ムリに感情を押し殺そうとするほうが、よほど不自然な生き方だ(37頁)

 内篇・斉物論第二の「非彼無我、非我無所取。」を取り上げた一節。感情を抑制しないと、感情が自身の言動に影響を与えてしまう。だからコントロールするべきである、と考えてしまいがちだ。

 もちろん、感情が言動に影響を与えてしまうのは良くない。しかし、感情を持つこと自体は悪いことではなく、それを押し殺そうとすることには無理が生じてしまう。言動に影響を与えない状況、つまり感情を感情そのものとして受け止めること。これを心しておきたいと思った。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)

2019年9月1日日曜日

【第982回】『日本沈没(下)』(小松左京、小学館、2006年)


 地殻変動によって日本列島が沈没する可能性が極めて高いことが徐々に明確になる。物語の展開の早さと相待って、緊張感の高まりも次第に増していく。未曾有の災害を扱ったSF作品であるため、読者が過去に経験した災害を良くも悪くも想起させられ、その実感には悍ましくも生々しく、読者を内省させるようだ。

 この物語の主人公と呼べる人々は、早くから日本列島の地殻を襲う変動を調査している。その調査をバックアップしているのが、政界のドンと言われる百歳を超えた老人だ。その老人の、日本および日本人に対する考察が考えさせられる。

 「日本人であり続けようとしても……日本人であることをやめようとしても……これから先は、どちらにしても、日本の中だけでは、どうにもならない。外から規定される問題になるわけじゃからな……。”日本”というものを、いっそ無くしてしまえたら……日本人から日本を無くして、ただの人間にすることができたら、かえって問題は簡単じゃが、そうはいかんからな……。文化や言語は歴史的な”業”じゃからな……。日本の国土といっしょに、日本という国も、民族も、文化も、歴史も、一切合財ほろんでしまえば、これはこれですっきりはしておるが……だが、日本人は、まだ若々しい民族で……たけりをたっぷり持ち、生きる”業”も終わっておらんからな……」(112頁)

 日本の企業組織がダメになれば、外国で外国資本の企業で働けばいいものだと個人としては思っている。いまでもその考えに変わりはないが、果たして、その時に抱くアイデンティティは何か。また外国で「一時的に過ごす」ことと、祖国がなくなって外国で「一生涯を暮らす」ということには絶対的な違いがあるのではないか。

2019年8月31日土曜日

【第981回】『日本沈没(上)』(小松左京、小学館、2006年)


 Eテレ「100分de名著」の小松左京特集で興味を持った一冊。恥ずかしながら著者の書籍を初めて読んだのであるが、簡潔な文章で文体も私のフィーリングに合う。この後も何冊か読んでみたい。

 本書の結論は上記の番組でなんとなくは理解している。加えて、同番組の中でも言われていたが、題名の時点で読者は想定しながら読み進める。しかし、そこに何を見出すかは読者次第ということであり、多様な読み方を許すところが出版当時にミリオンセラーとなるほど売れに売れた理由なのではないか。

 尾をひいて、小さくかがやきつつ、直下の闇へおちていく、三つの星を見つめながら、小野寺は、その大洋の水の壁の巨大さ、その底にひそむ暗黒の怪物の巨大さ、そしてそれに対する人間の存在の小ささ、知識の小ささを感じ、体の芯から冷気がこみあげてくるような気がした。ーーこの広大な道の中を、小さな船に乗ってのぼっていくわびしさが、冷たい海水の圧力といっしょになって、ひしひしと胸をしめつけた。あとの二人も、同じ思いにとらわれているらしく、ひっそりと息をひそめ、暗がりの中に身じろぎもせず、小さな観測窓のうす青い円形に、じっと眼をすえていた。(99~100頁)

 海底の不気味な動きを潜水艦で目の当たりにすることとなった主人公たち。その後、日本列島に襲いかかる天変地異を暗示させる薄ら寒い見事な表現だ。

2019年8月25日日曜日

【第980回】『司馬遼太郎『街道をゆく』叡山の諸道II』(司馬遼太郎、朝日新聞出版、2016年)


 比叡山の風景の描写もさることながら、本巻では比叡山の歴史について勉強させられた。最澄が亡くなった後に起こる権力争いは、たぶんに政治的であり、教えを守ろうとする組織がなぜこうなってしまうのか、よくわからない。

 円仁は、終生、横川の山林を愛した。(18頁)

 権力争いには興味を持たなかったが、その卓抜した知識によって座主を務めることになった円仁。円仁は、横川での静謐な生活を楽しみ、結果的に、横川を、東塔・西塔と並ぶ叡山の地域へとすることになった。

 昨年、比叡山を訪れた際にある僧侶の方がおっしゃっていたのは、延暦寺三塔はそれぞれ、東塔=現在、西塔=過去、横川=未来を指すとのことであった。円仁は、彼が生きた時点におけるつまらない政治的な争いという現在にとらわれず、教えの将来における発展に目を向けていたのかもしれない。

【第534回】『空海の風景』(司馬遼太郎、中央公論新社、1978年)

2019年8月24日土曜日

【第979回】『司馬遼太郎『街道をゆく』叡山の諸道I』(司馬遼太郎、朝日新聞出版、2016年)


 比叡山には一度だけ訪れたことがある。使い古された霊験あらたかという形容がいかにも当てはまるような静謐とした所であった。もう一度訪ねてみたいと思い、司馬遼太郎さんの解説を読もうと、本書に手が伸びた次第である。

 もっとも、最澄に対して神秘性を付加したり、個人崇拝をしないということも叡山文化のめでたさであり、同時に坂本の風のよさでもあるにちがいない(39頁)

 比叡山の門前町である坂本に関する著者の形容である。歴史の教科書にも太字で必ず出てくる最澄という人物を、いたずらに特別視しない町の風土に心地よさを感じる。

 子規と最澄には似たところが多い。どちらも物事の創始者でありながら政治性をもたなかったこと、自分の人生の主題について電流に打たれつづけるような生き方でみじかく生き、しかもその果実を得ることなく死に、世俗的には門流のひとびとが栄えたこと、などである。書のにおいが似るというのは、偶然ではないかもしれない。(41頁)

 最澄の書を見ての所感である。様々な歴史的人物を創作の対象としてきた著者ならではの慧眼といえよう。『坂の上の雲』も読み返したくなってしまう。

【第534回】『空海の風景』(司馬遼太郎、中央公論新社、1978年)

2019年8月18日日曜日

【第978回】『石川啄木』(ドナルド・キーン、各地幸雄訳、新潮社、2016年)


 私にとって詩を理解するのは難しく、石川啄木の詩も『一握の砂』のごく一部を高校の教科書で習った遠い記憶がある程度だ。正直、全く覚えていない。いくつかの書籍を読んでいると好きな詩を持つことの有効性や、俳句を好むことの効用をよく目にするようになった。本書も、そうした一環で何かで推奨されていて読むことになった。結論としては、石川啄木の伝記であり、彼の人となりを物語として読めて興味深く、改めて詩集を読みたいと思った。

 啄木は徐々にではあるが、美よりも真実が大事であると考えるようになった。(11頁)

 石川啄木以前の詩では、美的な世界を詩という形式で表現することに重きが置かれていたようだ。それに対して、啄木は真実をいかに伝えるかという手段として詩を位置付けたという。

 啄木は、すでに「詩」のロマンティシズムに興味を失っていた。「空想」文学は、啄木をうんざりさせるに到っていた。啄木が経験してきた「現実」の数々の困難は、新しい運動の精神に共感を抱かせた。啄木が運動の仲間たちから知ったのは、詩歌は必ずしも美や愛を語るものではないということだった。貧困の悲惨さや、ごく日常的な出来事もまた詩歌の題材にふさわしい、と。(277頁)

 ここでは、以前の詩が持つロマンティシズムに対する批判までが込められている。日常を切り取り、現実を表現することが詩歌の持つ意義と提示したのが啄木であり、それ以降の詩歌なのである。

 啄木の絶大な人気が復活する機会があるとしたら、それは人間が変化を求めるときである。(中略)啄木の詩歌は時に難解だが、啄木の歌、啄木の批評、そして啄木の日記を読むことは、単なる暇つぶしとは違う。これらの作品が我々の前に描き出して見せるのは一人の非凡な人物で、時に破廉恥ではあっても常に我々を夢中にさせ、ついには我々にとって忘れ難い人物となる。(330頁)

 啄木の詩が醸し出す現実と自由の感性は、太平洋戦争の終戦後に大きな注目を集め流行したそうだ。そこから判断すると、私たちが変化を求め自由を求める時に啄木の詩歌が影響を与えることになるのかもしれない。

【第516回】『百代の過客』(ドナルド・キーン、金関寿夫訳、講談社、2011年)

2019年8月17日土曜日

【第977回】『日本社会のしくみ』(小熊英二、講談社、2019年)


 読んだことがある方にはよくお分かりの通り、著者の書籍は嫌というほど分厚いです。今回はkindleで読んだのであまり厚さは感じなかったのですが、新書にしては相当なボリュームでした。じっくり読むという意味では盆休みは適切なタイミングであったなと。

 ナショナリズム研究をはじめとした著者の歴史社会学の書籍を愛読して来た身としては、雇用を扱う本書には一見して意外な感がありました。しかしながら、過去の書籍を読んで来たためか、結論的には著者の書籍だなぁという実感を得ながら読み進めることとなりました。

 長期雇用と配置転換は、いわばバーター関係になった。それを制度的に可能にしたのが、職能資格制度だった。日経連の一九六〇年の報告書でも、「日本のような生涯雇用的なもので、職務転換を予め予想された形で就いている場合」には「資格制度」が必要だという主張が見られた。(kindle ver. No. 5601)

 本書の中でも取り上げられているアベグレンが日本企業の三種の神器として挙げたものの一つである終身雇用は、ジョブローテーションとの相互依存関係にありました。そうした関係性を可能にしたものが、日本独自の職能資格制度だとされています。

 言い方を換えれば、日本企業とその社員は、雇用の安定性を選択したと言えましょう。企業側が社内における雇用の流動性を担保することで、社員側は雇用されることをコミットし、企業側は雇用し続けることをコミットしたという相互依存関係が生じます。

 この関係性は、日本とアメリカとで同じ背景であったにも関わらず異なる解決策を志向したことが以下の箇所によく現れてます。

 日本もアメリカも、二〇世紀前半までは、雇用主や職長の気まぐれで賃金や仕事内容が決められ、簡単に解雇される「野蛮な自由労働市場」だった。職員が身分的な特権を享受していた点も、身分の構成要因が違っていたとはいえ、あるていど共通していた。
 それに対しアメリカの労働運動は、職務を記述書によって明確化し、同一の職務には同一の賃金を払うという「職務の平等」を志向した。一方で日本の労働運動は、職員の特権だった長期雇用と年功賃金を労働者にまで拡張させ、職員に昇進しうる可能性を開くという「社員の平等」を志向した。(kindle ver. No. 6623)

 では、職能資格制度を基とした日本的雇用はどのようにでき上がったのでしょうか。

 一九六〇年代に、一連の日本的雇用の特徴が定着した。それは明治期いらいの慣行が、総力戦と民主化、労働運動と高学歴化などの作用によって、三層構造をこえて拡張することによって成立したのである。(kindle ver. No. 5658)

 ここで私たちは、著者の一連の著作を思い起こすことになります。『<民主>と<愛国>』で著者は、日本の近代化を巡るナショナリズムと民主化との相互の関係性を明らかにしました。日中戦争から太平洋戦争にかけての総力戦の経験が、日本軍における身分の差異のデメリットをもたらし、そこからの教訓として身分という存在への強烈なアンチテーゼが生まれます。

 その結果として、「勉強に励んで高い学歴を目指す」という学歴主義が生じます。さらに欧米諸国と比べて興味深いことに、「学歴」というよりも高い「学校歴」を志向するという日本独自のアプローチが生まれます。

 これは、旧帝大および早慶の卒業生のみを学校推薦枠として採用対象とした日経大手企業の採用戦略が大元となっていたようです。こうした内規がなくなった今であっても、高学校歴志向は厳然として存在します。

 そのため、高学校歴を担保できる限られた枠への進学を目指す受験戦争は今でも存在し、違う側面からいえば学士から後の勉強へのインセンティヴは生じません。その結果として、欧米と比較すると日本人のビジネスパーソンの「低学歴」化が生じているというやや意外なデータも提示されています。

 この現象は、グローバル企業にいて海外のカウンターパートと話していると実感します。日本の有名な大学であっても海外ではそれほど有名ではなく、どれほど「高学校歴」があるかはアピールになりません。むしろ、MBAや人事であれば組織行動論や心理学で修士を持っていることが共通の土台に立てる免許のような存在となります。

 こうしてでき上がった職能資格制度は、なぜ合理的に適応できたのでしょうか。

 当時の四〇~五〇代の男性たちは、戦争と兵役を経験し、軍隊の制度になじんでいた。職能資格制度がこの時期に急速に普及したのは、総力戦の経験によって、各企業の中堅幹部層がこうしたシステムに親しんでいたことが一因だったかもしれない。
 だが彼らは、重要な点を見落としていた。彼らが軍隊にいた時期は、戦争で軍の組織が急膨張し、そのうえ将校や士官が大量に戦死していた。そのためポストの空きが多く、有能と認められた者は昇進が早かった。(kindle ver. No. 5682)

 職能資格制度が当初機能したのは軍隊組織の組織論と近かったからであり、総力戦を経験して企業に戻った社員にとって馴染みのあるシステムだったからです。戦争における組織という空きポジションが常に生じ、かつそれを速やかに充足しなければならない環境では、人財を能力によってプールしておくことが合理的でした。

 しかし、マネジメント・ポジションが増えず、人財が滞留状態では、能力があるとされる人が無用に増えます。管理職比率が上がれば、人件費が上がり、固定費が上昇します。アングロサクソンの企業のように管理職の人財をPIP等で適正化するしくみがない中では、フリーライダーが増えてしまいかねません。

 だからと言って制度を改定すれば良いというわけではありません。制度は、複数の要因で絡み合ってそれがいわば文化を生み出すからです。

 運動は制度を作る。だが、他の諸勢力との妥協や交渉を経てどんな制度ができるか、その制度がどんな効果を生むかまでは、必ずしも当事者たちは予測できない。「職務の平等」を志向したアメリカの労働運動は、意図せざる結果として横断的労働市場を作り出したが、同時に細分化された単調な職務による疎外感を生み、学位による競争や格差をもひきおこした。「社員の平等」を志向した日本の労働運動は、意図せざる結果として勤労意欲と技能蓄積の高い企業を作り出したが、同時に従業員どうしの過当競争を生み、「正規」と「非正規」の二重構造をもひきおこしたのである。(中略)
 これはいわば、戦後日本の社会契約というべきものだった。「一億総中流」といった言葉は、実態はどうあれ、この社会契約を象徴的に表したものだった。この社会契約を犯すもの、たとえば不正受験や地方間格差は、批判の対象となった。(kindle ver. No. 6653)

 多様な要素が複雑に絡み合うことで、何を是とするかが決まり、人々はそれを実現するためのプロセスを合理的に進めようとします。そうした日が当たる場所が生み出されれば、日が当たらない影を生み出すことになり、また不誠実な方法で日なたを目指すことを弾劾することになります。何を是とし、何を非とするかは、しくみが生み出すわけですね。

【第765回】『<日本人>の境界』(小熊英二、新曜社、1998年)
【第181回】『インド日記』(小熊英二、新曜社、2000年)
【第79回】『私たちはいまどこにいるのか 小熊英二時評集』(小熊英二、毎日新聞社、2011年)

2019年8月11日日曜日

【第976回】『すらすら読める正法眼蔵』(ひろさちや、講談社、2007年)


 正法眼蔵は難解だ。その難解な書籍を噛み砕いて説明してくれる著者には脱帽する。では、正法眼蔵のポイントはどこにあるのか。その著者である道元の思想の本質を以下のように端的に述べる。

 道元禅の本質は、この「心身脱落」にあります。わたしたちはこの「心身脱落」を理解することによって、道元の思想が理解でき、そして道元の主著である『正法眼蔵』を読み取ることができるでしょう。(12頁)

 ではどのようにすれば心身脱落ができるのか。そのためのヒントは只管打坐にあるという。

 ”只管””祗管”とは宋代の口語で、「ひたすらに」といった意味。全身全心でもってひたすら坐り抜きます。そのひたすら坐り抜いている姿こそが仏であり、悟りです。道元はそのように考えました。仏になるための修行ではなしに、仏が修行しているのです。(18頁)

 難解な正法眼蔵もこのように捉えると楽しく学べる、気がする。

【第734回】『日本仏教史』(ひろさちや、河出書房新社、2016年)

2019年8月10日土曜日

【第975回】『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(奥野克己、亜紀書房、2018年)

 カジュアルな文体で骨太な考察を展開する本に出会うとうれしくなります。本書はまさにそのような書籍です。著者は、ボルネオ島の狩猟採集民族であるプナンと共同生活を送りながら、フィールドリサーチした内容をまとめています。

 現場でともに生活することで、現代市民社会との差異が明確になります。その差異は、当初はプナンでの社会に対する疑問という形を取りながら、次第に私たちが暮らす日本社会への疑問へと変容します。たとえば、冒頭での以下の対比に如実に表れているでしょう。

 私たち現代人は、食べ物だけでなく、あらゆる必要なものを外臓する世界に生きている。そのため、それらの財を交換によって入手するために必要な貨幣を手に入れる手立てをまずは確立せねばならない。その手立てには、人間が生きがいや生きる意味を見出すプロセスが伴ってくる。そこでは、ニーチェが言うように、仕事の悦びなしに働くよりは、むしろ死んだほうがましだと考える人間も出てくる。
 現代に生きる私たちは、生きるために食べるのではない。生きるために食べるために、それとは別個のもうひとつの手続きを踏むことによって生きている。それに対して、狩猟採集民は生きるために日々、森の中に、原野に、食べ物を探しに出かけるというわけだ。(19頁)

 何かを蓄えようとせず、その日にその場所にあるものを分け合って食べることを<普通>とするプナンの社会に対して、現代市民社会では目的を持って日々の生活を送ります。その目的とは、将来における満足を最大化することであったり、働きがいや生きがいといった人生における意味を得ることです。

 著者はどちらが優れているということを主張したいわけではないと説明していますし、その通りなのでしょう。両者を比較することで、少なくとも現代市民社会に生きる私たちにとっては、何を自明のものとして生きているかが明確になるようです。

 著者の優れた考察は、人類学あるいは社会学のもはや古典的名著ともなっている真木悠介『気流の鳴る音』を思い起こさせます。

 本書で興味深い箇所の一つは、プナンの人々が反省をしないということに気づいた著者の以下の考察です。

 反省しないことは、​プナンの時間の観念のありように深く関わっているのではないかと言う点である(中略)。直線的な時間軸の中で、将来的に向上することを動機づけられている私たちの社会では、よりよき未来の姿を描いて、反省することをつねに求められる。そのような倫理的精神が、学校教育や家庭教育において、徹底的に、私たちの内面の深くに植えつけられている。私たちは、よりよき未来に向かう過去の反省を、自分自身の外側から求められるのである。しかし、プナンには、そういった時間感覚とそれをベースとする精神性はどうやらない。狩猟民的な時間感覚は、我々の近代的な「よりよき未来のために生きる」という理念ではなく、「今を生きる」という実践に基づいて組み立てられている。(51頁)

 過去から未来に向けた一直線の矢印で近代以降の市民社会の時間軸を表現することはよくあります。しかしながら、その契機として反省という作用を置いているところが本書の特筆すべき視座なのではないでしょうか。

 ビジネスの現場においても、内省あるいはリフレクションというものは良い意味で注目され、称揚される行為です。私自身もそのように思います。しかし、その内省に焦点を当てて、なぜ内省を私たちが行うのか、反対に言えばプナンの人々はなぜ内省しないのかというリサーチ・クエスチョンによって、著者は鋭く考察を加えます。

 ここでの今を生きるという発想こそが、最初に引用した箇所と繋がります。すなわち、目的意識によって将来を現在よりも価値が高いものとして見出そうとするのではなく、今自体に重きを置くという発想です。

 したがって、プナンの人々は過去に起きた事象を将来への時間軸の中で価値づけるということはせず、今という時点において良いことを行うことに焦点を当てるのです。翻って言えば、私たちは、将来における価値の最大化に重きを起きすぎて、現時点においてゆたかに生きるということを過小評価しすぎているのかもしれませんね。

 こうした発想を所有という概念に展開しているのが以下の箇所です。

 個人的に所有したいという慾への初期対応の違い。
 一方は、所有慾を認め、個人的な所有のアイデアを社会のすみずみにまで行き渡らせ、幸福の追求という理想の実現を、個人の内側に掻き立てるような私たちの社会。他方は、個人の独占慾を殺ぐことによって、ものだけでなく<非・もの>までシェアし、みなで一緒に生き残るというアイデアとやり方を発達させてきたプナンの社会。
 プナン社会では、個人的な所有が前提ではなかった。それゆえに、そこでは、概念としての「貸し借り」は、長い間存在しなかったのである。(127頁)

 著者は、当初、自身が持ってきた決して多くはない貨幣を、プナンの人々が感謝もせずにもらう行為に違和感を覚えたそうである。そこには、貨幣は誰かが所有するという発想が当たり前のものとしてあり、それを侵す行為に対する否定的な感情があります。私たちにとっては当たり前とも言えるものかもしれません。

 しかし、プナンでは、貨幣をはじめとしたものだけではなくものでない存在、例えば知識や能力といったものも個人が所有するという発想ではなく、集団のレベルで共同で共有するという考え方のようです。したがって、狩猟や漁を誰かが特異な力量で優位に行うということではなく、いかにして集団の中で共有するかという生き方に繋がります。そこには、所有によって人々の間に格差が生じるということはありえません。

 こうした自然な協働は、子育てにも影響しているようです。

 プナンのアロペアレンティングは、彼らの生業に関わっているようには思えない。そうではなく、実子であれ養子であれ、そのあいだに垣根を設けず、みなで一緒に育てるというやり方は、プナンの社会に深く広く浸透している共同所有の原理に根ざしているという見方もできるように思われる(中略)。それは、自然に対峙するプナンが、人間同士のコミュニケーションを行う際の根本原理である。(159〜160頁)

 アロペアレンティングとは代理養育のことを指します。プナンでは、養子縁組が盛んであり、実の親ではない人物による養育が当たり前の社会です。子供すらも親が所有するという発想ではなく、社会の中での共有財産として捉えているのかもしれません。

 組織の中における共同での教育という文脈で捉えると、企業社会も同じなのではないでしょうか。所有というパラダイムで考えると、ある社員を育成する存在は、上司であり、メンターや育成担当といったアポイントされた存在だけを考えがちです。

 しかし、そうした存在だけに育成を任せることは、育成の主体にとっても客体にとっても難しくなっているのではないでしょうか。時間の制約もありますし、変化の激しい環境において数少ない主体が育成を担っても効果は限定的と言えます。

 この辺りは中原淳先生の書かれた『職場学習論』を想起させられます。

 同書では、上司、上位者、同僚・同期といった三つの主体が、精神支援、内省支援、業務支援という三つの支援をどのように分有するかを考察されており、プナンの社会における育成主体の分有ということと近いと考えるのは論理の飛躍でしょうか。

 飛躍かどうかはさておき、発想があっちこっちに飛ぶ余地のある書籍は、私にとってはありがたい存在です。時期を見て改めて読み直してみたい、そんな一冊でした。

【第403回】『気流の鳴る音』(真木悠介、筑摩書房、2003年)
【第641回】『職場学習論』(中原淳、東京大学出版会、2010年)

2019年8月4日日曜日

【第974回】『ラ・ロシュフコー箴言集』(二宮フサ訳、岩波書店、1989年)


 ラ・ロシュフコーとは、一七世紀のフランスの貴族であり、幾多の戦争を経験した人物である。その人物が、自分自身の人生を省みながら書き連ね、加筆と修正を加えたものがこの箴言集である。本書には、箴言集から除かれたものも記載されていて、なぜ削除したのか、反対になぜこれが残ったのか、とあれこれ自由に考えながら読み進めるのも一興であろう。

 物事をよく知るためには細部を知らねばならない。そして細部はほとんど無限だから、われわれの知識は常に皮相で不完全なのである。(106)

 知識の重要性と、探究しながらも常に不足している状態に対する謙虚な態度が述べられているように思える。無知の知といったところであろうか。

 狂気なしに生きる者は、自分で思うほど賢者ではない。(209)

 狂という概念には否定的な意味合いしか以前は持っていなかったが、論語における狂や吉田松陰・高杉晋作にみる狂に触れてみるとあながちネガティヴなものだけではないようにも感じていた。ラ・ロシュフコーも狂を否定的には捉えていないようだ。もう少し考えてみたい。

【第216回】『孔子伝』(白川静、中央公論新社、1991年)
【第320回】『世に棲む日日(一)』(司馬遼太郎、文藝春秋、2003年)

2019年8月3日土曜日

【第973回】『私の読書遍歴』(木田元、岩波書店、2010年)


 著者の書籍は難しい。西洋哲学、とりわけハイデガー研究の碩学として著名であるため何度となく挑んでみたものの、恥ずかしながら入門と銘打った書籍でもこれまで苦戦し続けてきた。そこでアプローチを変えてみた。著者が何をインプットし何に影響を受けてきたかを知ることで、外に現れない著者の感覚や指向性を理解できるのではないかと思ったのである。

 そこで辿り着いたのが本書である。興味を持続しながら読み進めることができた。著者が影響を受け、どのような時期に何を読んできたのも理解した。果たしてこれを踏まえて著者の書籍を理解できるかは未実証であるが、まずは本書について述べる。

 詩なんか読んで、いったいなにになるんだとおっしゃる方が多いと思う。たしかに、なんにもなりはしない。しかし、こういうことは言えるのではなかろうか。私たちは、日ごろひどく振幅のせまい感情生活を送っているものである。喜びであれ悲しみであれ、よくよく浅いところでしか感じていないのだ。ところが、われわれは詩歌を読み、味わい、感動することによって、喜びや悲しみをもっと深く感じることができるようになる。ものごとを深く感じるためには、それなりの訓練が必要なのである。小説を読むとか音楽を聴くとか、人それぞれにその訓練の仕方は違うであろうが、私にとっては詩歌を読むということが、そのための最良の訓練になったような気がする。若い人たちにも、好きな詩人歌人をさがして、その作品をそらんじるくらい詠みこむことを薦めたい。(108~109頁)

 なぜ詩を読むのか、はたまた小説や音楽を味わうのか。著者の答えはシンプルであり、私たちが抱きえる感情の幅や深さを増すためであるとしている。小説を読む効用としてなんとなく意識してきたものであり納得的であるとともに、詩歌にもチャレンジしてみようと思わせる内容である。

 本には旬があって、ドストエフスキーや太宰治などは、二〇歳前後が旬だと思う。漱石などは、若いときにはむしろその味が分からず、四〇代にでもなってはじめて分かってくるということがありそうだ。鴎外の史伝物などにいたっては、六〇代にでもなってはじめて味読できるといったものではないかと思う。(120頁)

 ではいつなにを読むのか。それぞれの作品には旬があると著者はしている。思い違いしないようにしたほうが良いのは、本そのものに旬があるというよりは、本と自分自身の経験や志向性との相性によって旬が決まるということであろう。したがって、自分で読んでみながら旬を探ってみるというアプローチが良さそうである。

 最後に、単行本の「おわりに」での若者へのメッセージを引いてみたい。

 若い人たちにも、いい会社に入るとか高い給料をもらうといったことを考えるよりも、好きなこと、したいことをして生きることをお薦めしたい。もっとも、自分がなにをしたいのか、なにが好きなのかを見きわめるのがなかなか大変なことではあるわけだが。そして、できればいい本を読んで、深く感じ、深く考えることを学んでもらいたい。繰りかえして言うが、本を読むのは情報を集めたり断片的な知識を蓄えるためだけのものではないのだ。私たちは間もなく消えていなくなるわけだが、こんなに私たちを楽しませてくれた活字文化があっさり消えてなくなったりしないように祈って筆を擱きたい。(223頁)

【第18回】『反哲学入門』(木田元著、新潮社、2010年)
【第908回】『ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のこと教えてくれた。』(原田まりる、ダイヤモンド社、2016年)
【第769回】『福岡伸一、西田哲学を読む』(池田善昭・福岡伸一、明石書店、2017年)
【第579回】『これからの「正義」の話をしよう』(マイケル・サンデル、鬼澤忍訳、早川書房、2010年)

2019年7月28日日曜日

【第972回】『ビギナーズ・クラシックス 中国の古典 菜根譚』(湯浅邦弘、KADOKAWA、2014年)


 著者が「100分de名著」で菜根譚を扱っていた回を見ていて同書に興味を持った。久しぶりに菜根譚に関連する本を読んでみたが面白かった。解説をしてくださる方に信頼感があると、安心して読み進められる。

 洪自誠の基本は、やはり儒家としての道徳心でした。確かに、『菜根譚』には、道家や仏教の思想が色濃く見られ、「無」や「空」の思想まであと一歩のところまできている条もあります。しかし、洪自誠は、ぎりぎりのところで踏みとどまり、道家や仏教とは一線を画しています。現に、仏教や道教を批判する条さえあります。(15頁)

 まず菜根譚は、論語、道教、仏教といった様々な先行する思想を含みながら発展させている書物である。その中でどこに軸を置いているかという論語であるとここで著者はしている。

 耳にはいつも聞きづらい忠言や諫言を聞き、心にはいつも受け入れがたいことがあって、それではじめて、道徳に進み、行動を正しくするための砥石となるのである。もし、言葉がすべて耳に心地よく、ことがらがすべて心に快適であれば、それは、この人生を自ら猛毒の中に埋没させてしまうようなものである。(前週五)(25頁)

 このようなまさに良薬口に苦しのような警句がいいなと思う。

 治世にあっては四角張って生き、乱世にあっては丸く生き、末の世にあっては、四角と丸の生き方を併用しなければならない。善人を待遇するには寛大に、悪人を待遇するには厳格に、普通の人を待遇するには寛大・厳格を併用するのがよい。(前集五〇)(69頁)

 こうした現実を見据えた一言も心地いい。だから菜根譚は現代でも活きる人生訓に満ちた良書と呼ばれ続けるのであろう。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)
【第390回】『菜根譚』(今井字三郎訳注、岩波書店、1975年)

2019年7月27日土曜日

【第971回】『入門 老荘思想』(湯浅邦弘、筑摩書房、2014年)


 孔孟に対して老荘と対比的かつ同一的に捉えられることの多い老子と荘子。本書では、中国思想の碩学である著者が、「入門」と銘打って、老子と荘子の相違に加え、論語との関連性にも触れながら易しく解説してくれている。

 冒頭では、2009年1月に北京大学に寄贈されたほぼ完本の『老子』竹簡群をもとに、従来の『老子』とは異なる解釈がなされてきた背景が説明される。

 従来、『老子』の思想は、儒家に遅れて成立したものであり、「アンチ儒家」の思想だととらえられてきた。しかしそれは、後世のテキストに手が加えられて、そのように解釈されたためではなかったかという可能性すら出てきたのである。(71頁)

 老子は、論語を否定する存在と考えてしまうが、それは、後世の人々がそのような意図で編集したり新たに書を著したために、現代の私たちが理解しているだけなのかもしれない。もちろん、論語と老子との間の考え方の違いは大きいと思うが、違いにだけ焦点を当てる読み方は避けるべきなのだろう。

 『老子』は、無や無為とは言いながら、何もするなと言っているわけではない。無為であるからこそ、為さないことはない、という。少し言葉を補えば、無為にしているように見せかけることによって、実はすべてのことを成し遂げているという意味にもとれる。逆説的な、見方によっては、実に老獪な思想である。(94頁)

 無為自然は老子の一つの有名な考え方である。学問を否定し、知識を無意味だという。しかし、このような老獪な考え方というのも面白い。何も為さなくてもいいというのではなく、何も為していないかのようにみせる、という考え方は興味深い。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)
【第915回】『老子の教え』(安冨歩、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2017年)

2019年7月21日日曜日

【第970回】『ランニングする前に読む本』(田中宏暁、講談社、2017年)


 一年前の私、つまりフルマラソンに向けて準備を進めハーフマラソンを目指していた頃の自分に読ませたかった本である。マラソン初心者にとって、具体的な方法や留意点が述べられており、頭で理解した上で走りたいランナーにとって適した書籍である。

 いま読んでも唸らさせられる箇所が多い。自分にとっての気づき・学びとなったところを中心に、将来の自分への備忘録として述べていく。

 まず驚いたのが、マラソンのレース中に水を飲みすぎることで引き起こされる低ナトリウム血症である。具体的には「体重がスタート前よりも重くなればなるほど発症率が高くなる」(190頁)と指摘している。ではどのようにすれば適切な水分摂取量を測ることができるのか。

 レース1週間前に10~15kmほどの距離を水分摂取せずに走って、その前後で体重がどれだけ減少するか測定してみてください。その体重減は、ほぼ水分の喪失によるものですので、走るときの水分摂取量は、レースの距離に換算したその喪失量未満に抑えるようにします。それがレース中に必要な水分摂取量ですから、事前に確認しておきましょう。(192頁)

 次にグリコーゲンローディング(カーボローディング)について。炭水化物をレース前に食べ続けるだけではない。

 レース3日前に長い距離(20~30km)を走り込むことをおすすめします。いったん、筋肉中のグリコーゲンを枯渇させることが目的です。
 そのために、走る30分ぐらい前に糖分を摂取します。そうするとインスリンが分泌されて、運動中の脂肪のエネルギー供給が阻害されますから、より多く筋肉中のグリコーゲンが使われます。長い距離を走り込むといっても、20~30kmを継続して走り続ける必要はなく、細切れ運動で構いません。(196頁)

 しかし「前日に走ることでプラスになることはまずあり得ません」(198頁)としている点には注意したい。前日は休むに限るのである。

 グリコーゲンローディングの食事におけるポイントも見ておく。

 炭水化物食を3日間摂取すると、2日目までは筋肉のグリコーゲン量は急増しますが、3日目にはほとんど増えません。すなわちレース当日は、筋肉のグリコーゲンは満タンでそれ以上増やせない状態です。(201頁)

 つまりレース三日前からは炭水化物食にすることが勧められている。具体的には日本食で行うことが有効であるとして、お餅、ご飯、うどん、蕎麦、和菓子を推奨し、著者は食後に好んで大福を食べるとしている。

 レース当日の朝は、炭水化物をとっても増やせないので炭水化物は最低限、たとえばご飯一膳程度で良いようで、著者は、ハンバーガーとポテトといった塩分を取るようにしているらしい。その上でレース直前にはゼリー状のエネルギー補給用飲料を飲んでいる。

 以下の箇所は、黒部名水マラソンの時の自分に言い聞かせたい。

 ペースをうまく守ってはしれたとしても30km過ぎてからつらくなる場合は、脳の疲労が主な原因と考えられます。それは低血糖から起こるものですから、乗り越えるためには、糖分の補給をするとよいでしょう。積極的に糖分を補給して血糖値を維持することが、脳疲労を起こさない予防手段につながるからです。
 そうした理由からも、レース中の捕食は、血糖値を維持するために有効です。
 レース直前に糖分を摂取することをおすすめしましたが、それによって走り出して10kmほど血糖レベルを高く保つことができます。レース中の捕食はそれ以後に、1時間毎に消化吸収の速い捕食ゼリータイプのもの(糖40~50g)を摂取するとよいでしょう。(205~206頁)

 最後にレース後の休息期間について。

 休息も大事なトレーニングです。次の練習再開は少なくとも1週間休んで、走りたいとの気持ちが高まるまで待ちましょう。(210頁)

【第868回】『マラソンの強化書』(小出義雄、KADOKAWA、2015年)
【第165回】『走ることについて語るときに僕の語ること』 (村上春樹、文藝春秋社、2007年)

2019年7月20日土曜日

【第969回】『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』(M・ピュエットら、熊谷淳子訳、早川書房、2018年)


 タイトルがキャッチーな書籍は、今ひとつな品質である時は目を当てられないほどであるが、本書は面白かった。原題は「The Path」であり、孔孟も老荘も重視している「道」をテーマとしていることがわかるだろう。著者が行ったハーバードでの講義を書籍化したものであり、読みやすいのもまたありがたい。

 自己を定義することにこだわりすぎると、ごくせまい意味に限定した自己ー自分で強み、弱み、得手、不得手だと思っていることーを基盤に未来を築いてしまうおそれがある。中国の思想家なら、これでは自分の可能性のほんの一部しか見ていないことになると言うだろう。わたしたちは、特定の時と場所であらわれる限られた感情だけをもって自分の特徴だと思い込み、それが死ぬまで変わらないものと考えてしまう。人間性を画一的なものと見なしたとたん、自分の可能性をみずから限定することになる。(30~31頁)

 あるべき自己は不偏的なものではない。だから、真の自分を探しても構わないが、それはその時点におけるものにすぎず、私たちは自分自身が持つ多様な可能性に意識を当て、柔軟に自身を開発することが必要だ。

 しかし、変化し続けることには不安を伴う。一歩踏み出すことには勇気がいり、常に一歩踏み出せと言われても自信がない人は多いだろう。そうした時に変化の時代における生き方を様々なアプローチで問うて来た中国古典の著者たちの至言に耳を傾けてみたい。

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)
【第930回】『論語 増補版』(加地伸行、講談社、2009年)

2019年7月14日日曜日

【第968回】『このせちがらい世の中で誰よりも自由に生きる』(湯浅邦弘、宝島社、2015年)


 老荘思想をここまで意訳的に解説してくれるとうれしい。「簡単な」本の功罪はあれども、やはり何かを入門的に学ぶためにはアクセスしやすい書籍というものはありがたいものである。本書では、老子と荘子の思想が余すことなく描かれている。

老人「老子は無為を説いておるが、『バカでいい』なんてことは言っておらん。殊更な作為をしないと言ったが、これはたとえできたとしても、あえて何もしないことを選ぶとも言える。それに、この後には『天下を取るは常に事無きを以てす』と続き、事を起こさないことを天下を取る条件にあげておる」(44~45頁)

 著者は、老子は老獪だとしてこの言葉を例にとって説明をしている。何もしないとはすなわち努力をしないということではなく、やりすぎを戒めているということなのかもしれない。世の中から離れるのではなく、むしろ世の中とかかわりながら、どのように自分自身を処するのかを説いていると考えると、老子の主張も現実的で面白い。

老人「そう、それだけ。心の持ちようをちょっと変えるだけじゃよ。ただ、もし自分からアクションを起こして状況を打開したければ、『論語』や『孫子』を読めばいい。ワシも読んでおるが、どちらも含蓄に溢れているし、非常に素晴らしい書物じゃ。だが、誰もがその通りにできるとは限らん。そんなときに『こんな考え方もあるんだ』と老荘の教えを知ることができれば、いい意味で肩の力が抜けると思うんじゃ」(169~170頁)

 老荘の世界観には憧れる。しかし、老荘が否定している(ように見える)孔子の世界観にも惹かれる身として、どのように対処すればいいか、迷ってきた。しかし、この箇所を読んで救われる思いがした。勝手に解釈すれば、自分で勝手に選べばいいのである。自分の引き出しとして、老荘も論語も持てば良いのであり、それが自由ということなのではないだろうか。

【第668回】『ビギナーズ・クラシックス 老子・荘子』(野村茂夫、角川学芸出版、2004年)
【第377回】『荘子 第一冊』(金谷治訳注、岩波書店、1971年)
【第749回】『老子』(金谷治、講談社、1997年)
【第841回】『求めない』(加島祥造、小学館、2007年)

2019年7月13日土曜日

【第967回】『老子・荘子』(守屋洋、東洋経済新報社、2007年)


 論語を好む者として、ともすると論語やその解説本にばかり目が向きがちになってしまう。老子は好きだが論語ほどではないし、荘子は正直に言ってまだよくわかっていない。否、老荘を「分かろう」とすること自体が間違ったアプローチなのかもしれない。

 いずれにしろ、老荘をもっと腑に落としたいと感じ、近々荘子を扱う読書会を設けることとしたため、いいテクストを探し求めている。碩学が簡潔にまとめている本書は、入門書としてさすがの感がある。

 人皆、有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり。(67頁(荘子 人間世篇))

 「有用の用」は、現時点において求められるものであるために誰もがわかりやすいものである。だからこそ、多くの人がそこで求められる能力を身につけようとするが、過当競争になるか、身につけた時には時を逸していているかになりがちだ。

 反対に荘子では「無用の用」を発見することの重要性が説かれる。一見して無用に思える内容は、単に暗黙的であるがために客観的に捉えられないだけなのかもしれない。視野を広げて、また時間軸を拡げて、無用の用を意識してみたい。

 人に順いて己を失わず。(197頁(荘子 外物篇))

 この節のタイトルである「柔らかさのなかに主体性がほしい」という著者の要約が素晴らしい。柔軟すぎて日和見主義的になるのではなく、柔軟でありながらも芯を持った対応ということを心がけたいものだ。

【第668回】『ビギナーズ・クラシックス 老子・荘子』(野村茂夫、角川学芸出版、2004年)
【第377回】『荘子 第一冊』(金谷治訳注、岩波書店、1971年)
【第749回】『老子』(金谷治、講談社、1997年)
【第841回】『求めない』(加島祥造、小学館、2007年)

2019年7月7日日曜日

【第966回】『社会学史』(大澤真幸、講談社、2019年)


 新書ではあるが、ざっと一読して中身を理解できるものではない。少なくとも私にとってはそうであった。しかし、難しいことは悪いことではない。わかりやすさを求める姿勢にこそ、問題があるものではないだろうか。

 社会学は、「近代社会の自己意識の一つの表現」なのです。近代社会というものの特徴は、比喩的な言い方をすれば、「自己意識をもつ社会」です。自分が何であるか、自分はどこへ向かっているのか、自分はどこから来たのか。それが正しい認識かどうかはわかりませんが、近代社会とはこういう自己意識をもつ社会です。(3-4頁)

 このように言われると、自己意識を持たない社会とは何か、ということが考えられる。おそらくは、本書でも示唆されるが、神という絶対的な存在との関係性の中で自分を位置づけていた社会ということであろう。つまり、近代とは、神から人間が自立した社会であり、その結果として自分という存在に対して意識を持つ社会である、ということなのであろう。

 ヴェーバーは学問をやることで鬱と戦っているわけです。だから、時代の病としての鬱に対して、それに拮抗する精神の営みとして社会学がある。(16頁)
 
 神から自立した社会では、自立できるかどうかが問題となる。自立するための病の一つとして、鬱病が取り上げられている。鬱との戦いを、社会学という手段によって対抗しようとしたのがマックス=ヴェーバーということのようだ。本書でも説明されているように、ヴェーバーは、鬱を発症してから後に社会学の嚆矢とも形容される様々な代表作を発表している。

 少し気取った言い方をすれば、現実の社会秩序に他性を対置する認識なしに、社会秩序はいかにして可能か、という問いはでてきません。言い換えれば、社会学を成立させているのは、通常のものの「不確実性」(ありそうもない)の感覚なのです。(22頁)

 近代以降の私を取り巻く不確実性。それは不自由なものではなく、近代以降の自由主義の生み出した、可能性としての存在なのかもしれない。


2019年7月6日土曜日

【第965回】『残業学』(中原淳+パーソル総合研究所、光文社、2018年)


 2016年に当時の安倍内閣が打ち出した働き方改革。その目的や方針は、多くの日本の大企業で受け入れられているものの、導入に際した各論では賛否の議論が喧しい。企業の中では、経営や人事が導入を大々的に喧伝しながらも、現場ではやらされ感がいっぱいということも多いようだ。

 働き方改革の主要な施策の一つが残業への対応策であることは容易に想像がつくだろう。残業時間を抑制しようとすると、「それでは仕事が終わらない」「ハードワークによって人は成長する。現場の人財育成を否定するのか」などという反論が起こる。それぞれの反論には傾聴の余地があるものの、本当にそのようなケースなのかという峻別が必要だろう。

 本書では、月間の超過勤務時間が60時間以上の層を「残業麻痺」と定義づけている。著者らの調査によれば、「残業麻痺」層は、そもそも仕事上の高い負荷を自覚していないタイプだけではなく、高負荷を自覚しながらも幸せを感じているタイプが含まれているようだ。初期キャリアの最初の少なくとも二年間は、この後者のタイプに該当していた私自身、そこで成長感や達成感のようなものを感じていたことは実感がある。

 仕事を通じて幸せを感じ、自ら超長時間残業を受け容れる「残業麻痺」層に対して、どのように対応すれば良いのか。リスクを伝えるとともに、仕事を通じた幸福感の背景を伝える必要があるだろう。

 仕事を通じて「フロー」や「幸福感」を持つことができるのは、それ自体悪いことではありません。しかし、この「フロー」に近しい幸福感が、超・長時間労働において感じられているのであれば、話は別です。心身の健康を犠牲にしても仕事の手を止めず、依存症的に「いつまでも働き続ける」ことになりかねません。私には超・長時間労働とは一種の依存症に近いもののように思えます。(121頁)

 著者らは、こうした「残業麻痺」層が生じる組織には特徴があると明らかにしている。「組織の一体感」と「終身雇用への期待」という組織の要因と、「個人の有能感」「出世見込み」というキャリアの要因とが、職場における長時間労働における幸福感へ影響を与えているようだ。これらをまとめると、以下の引用箇所となる。

 「定年」という明確なゴールに向かって、一体感を持ってがむしゃらに目標に向かって行くような凝集性の高い組織において、「出世見込み」を感じながら自信を持って働いている人が、「幸福感」を抱きながら超・長時間労働をしている。(123頁)

 「残業麻痺」層が、いわば依存症のように残業を行い幸福感を得ようとすることには、心身上のリスクがあるだけではない。個人の成長にも問題があるのである。

 残念ながら、人は「経験」を積み重ねるだけでは成長できません。「経験」したことについてのフィードバックを受け、振り返りを行って、次の行動に活かしていくことが「未来」に向けた学びとなります。このことを踏まえると、長時間の残業は、むしろ仕事経験を通した成長を阻害していると言えます。(130頁)

 人は経験から学ぶのではなく、経験を振り返ることで学ぶと喝破したのはデューイである。超・長時間労働が奪うものは、経験のあとで振り返る機会である。

 かつての日本企業では、超・長時間労働を伴う仕事の中に、ストレッチのある職務でPDCAを回す要素がふんだんにあったので超過勤務によって成長できたのではないか。翻って、成長機会の乏しい経済環境と組織環境である現代の日本企業ではそのような質の意味でストレッチできる手応え感のある業務は少ないのではないか。

 そうした業務を超・長時間行っても、達成感があるだけで成長は乏しく、それに気づくのは後になってから、しかも心身の不調を感じるようになってから、では悲劇である。残業に健全に対応することは、組織で働く全ての人々にとって真摯な課題である。

【第929回】『女性の視点で見直す人材育成』(中原淳/トーマツイノベーション、ダイヤモンド社、2018年)
【第901回】『組織開発の探究』(中原淳・中村和彦、ダイヤモンド社、2018年)
【第862回】『研修開発入門「研修転移」の理論と実践』(中原淳・島村公俊・鈴木英智佳・関根雅泰、ダイヤモンド社、2018年)
【第727回】『人材開発研究大全』<第1部 組織参入前の人材開発>(中原淳編著、東京大学出版会、2017年)