ニーチェが現世の日本人青年に乗り移り、17歳の女子高生アリサと交流し、ニーチェを取り巻く様々な哲学者も登場してアリサが哲学を通じて学ぶ様が描かれる。と書いてもなかなかイメージしづらいかもしれないが、ニーチェ、キルケゴール、ショーペンハウアー、サルトル、ハイデガー、ヤスパース、といった哲学者のガイドブックと捉えていただければ良いだろう。
哲学は好きで学びたいが、原著およびその翻訳書を読むと眠気を催す、という私のような方には適した入門書である。大胆に意訳しているようではあるが、違う言い方をすれば、現代に生きる当て嵌め方の仮説を著者は提示してくれている。それをどのように解釈し、現実に活かそうとするかは私たち読者の真摯な対応次第であろう。
そのために、哲学するとは何かという大事な条件を先に引用した上で、各人の考え方を記していく。
「すでにあるものを鵜呑みにするのではなく、疑いを持ち、自分なりに考えてみる。
<ニーチェ>
まずはニーチェの言葉から。ニーチェと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、超人というやや大げさな訳で膾炙している概念であろう。著者は、超人を「永劫回帰を受け入れ、新しい価値を創造出来る者」(69頁)と端的に解説している。未来は蓋然性の中にあるものに過ぎず、超長期的なスパンで捉えれば繰り返しにすぎない。しかし、何が起きたとしてもその過程と結果を受容し、自分自身で価値を創造することをニーチェは主張しているようだ。
超人という概念を生み出した背景には、人生をどのように捉え、いかに生きるかというニーチェの考え方がある。大前提として彼は、「ニヒルになりすぎると、自分の人生にもかかわらず、自分の人生を軽んじて生きてしまうことになる」(66頁)として、現状をいたずらに否定してポジショニングしようとする安易な生き方を否定する。
このように、自分自身を卑下して納得しようとしたり、他者と比較して自身を良く見せようとすることに私たちは汲々としがちだ。両者の主張内容は反対でも、ゴールに固執しているという点では同じだとして、ニーチェは以下のような警句を述べている。
ゴールや、理想だけを追い求めることはない。いま自分がいる場所、そして自分のスタートライン。それらをひっくるめて愛すのだ。それが運命愛だ。運命を持たなければ、損得に縛られ、自分が得をしていないような人生を否定することになってしまう(71頁)
では、客観的なゴールに固執せず、他者とも比較せず、プラスでもマイナスでもない人生へとるべき態度はどのようにあるべきなのか。ニーチェの答えはシンプルだ。つまり、「人生に意味などない。意味がないことを嘆くのではなく、意味がないからこそ、自由に生きるのだ。」(105頁)という、諦念と可能性との合わせ鏡のような態様だ。
自由に生きることを提唱することで、私たちの努力や意志を否定しているわけではない。むしろ反対であり「自分のパワーをフルに最大化させていく”力の意志”」(102頁)を重視する。その上で、他者から与えられる創られた感動を否定し、「己の可能性が広がった時に感じる」主観的な感動(102頁)を重視しているのである。
<キルケゴール>
次に登場するキルケゴールは「デンマークの尾崎豊」(125頁)と本作では揶揄と敬愛とが混ざった形容詞が付いており、実存主義の嚆矢としての彼のイメージを良くも悪くも持ちやすい。
自分の人生ではなく、他人の人生を妬むことに時間を費やしてしまっている。情熱をもって生きないと、自分の人生は妬みに支配されてしまうーー。(128頁)
実存、すなわち「主体的真理」(127頁)を重視するキルケゴールの上記のような主張は、私にはニーチェに近いように感じられる。そのベースがある一方で、ニーチェと比較するとやや不安や心配といった暗い側面により焦点を当てているように感じられる。それは、可能性に対する捉え方であろう。
「可能性は僕たちに夢を見させるぶん、不安にさせる。そして、不安だらけの人生の中で、自由から逃げ出すことなく誠実でいなければならないんですよ。
不安から逃れたいという目的で、道を選んではいけません。不安と誠実に向き合う。不安に左右されて、自分を騙してはいけません」(147頁)
まず、可能性が不安を生み出すという発想方法は、ニーチェにはない、キルケゴールの特徴のように思える。このいくぶん暗い前提にたった上で、可能性とその裏側にある不安とに満ちた日常の中で、私たちは誠実に生きることが求められるのである。この辺りの日常に対する捉え方は、ニーチェに近いものを感じる。
何かを選ぶということは、選ばなかった可能性を生む。そして私たちは何かに行きづまった時に、選ばなかった可能性に苦しめられるかもしれない。(153頁)
先に引用した箇所を踏まえたキルケゴールのこの警句にはハッとさせられた。というのも、キャリアチェンジの際に恩師から受けたアドバイスの主要な内容と全く同じだったからである。やや備忘録的に書き残しておきたい。
<ショーペンハウアー>
ニーチェやキルケゴールが価値中立的な現実認識をした上で論旨を展開していたのに対して、現実認識の時点から悲観的な認識を持つのがショーペンハウアーだ。彼は「人間は、退屈をしのぐために欲望を持ち、欲望が満たされるとまた退屈になるという、いたちごっこから逃れられない」(169頁)としている。
こうした認識であるにも関わらず、自分自身に対する態様はどこかニーチェやキルケゴールのように思えるから面白い。「他人からの評価に一喜一憂して振り回されるのではなく、まず自分の中に確固たる自信を持つことが第一条件だ」(182頁)としている箇所を読むと、そのように思えるのだがいかがだろうか。
<サルトル>
キルケゴールが実存主義の嚆矢だとしたら、それを広く人口に膾炙し、1960年台の若者の反乱の時代における思想的バックボーンとなったのがサルトルである。作中で彼は、実存主義について、「いまここに存在する自分にスポットを当て”生きている意味・人生のあり方を追求する思想”」(213頁)と端的に解説してくれている。
その上で以下のような例示を出して、人間観の説明を行ってくれている。
「ああそうだ。それが先ほど話した”実存は本質に先立つ”といった意味だ。
道具は、理由あって、存在する。つまり、本質あって、実存するのだ。
理由があらかじめ用意されていて、存在しているのではない。まず、生きている、存在しているという事実があるのだ。
つまり理由が用意されていなくても、存在しているのが人間なのだ」(211頁)
キルケゴールに近い雰囲気がするのは、実存主義を継承しているというからであろうか。ただし、有神論者であったキルケゴールに対して、神に対する存在に対して力が抜けているためか、現実を起点としたよりリアリティのある考え方のように思える。それは、将来に対してキルケゴールが不安を意識していたのに対して、投企という概念を用いて淡々と述べている以下の箇所にも現れていそうだ。
「未来の可能性に向かって、自分を構築していく、といった意味だ。
人は自分がつくりあげる以外の何ものでもなく、どのように自分をつくることも出来る。
逆に言えば、人は何ものでもない状態で、この世に生をうける。
そして生きていく中で自分が何ものになるかは、自分でつくり上げていくほかないのだ。
自分がどのように生きてもいいし、何を選択してもいい。人間は基本的には自由だ」(220頁)
神ありきで発想したキルケゴールのような不安や、神を否定しようとしたニーチェのような力の入った議論ではないからか、すっと頭に入ってくるような感じがする。自分自身の実存を発想の起点にする以上、他人の捉え方も自身にフィードバックされるものとなる。
自由な存在である他人に対して、私たちが出来ることはまなざしを向け返すこと、つまり他人を対象化することによって、主体性を、自分の世界を取り戻すことくらいしか出来ない。(242頁)
人間という存在そのものを実在するものとして重視するサルトルの人間観はどこかサバサバとしているようだ。しかし、他者からのまなざしの影響を論じた見田宗介の『まなざしの地獄』に明らかなように、日本社会はとかく世間体や評判といった他社からのまなざしを気にする傾向がある。そうした社会においては特に、「まなざしを向け返す」という主体的な行為によって主体性を取り戻すことが求められるのかもしれない。
<ハイデガー>
ハイデガーが提起する問題は、死という時間軸の設定であり、私たちの有限性に目が向けられる。「死をもって生を見つめた場合に、人は代わりがきかない存在」(277頁)であるとして、死という有限性によって私たちの個としての生に意味が見出される。具体的かつ丁寧に説明された以下の箇所を併せてお読みいただきたい。
自分が死んでしまうと、周りのあらゆる人を含めた世界ごと消滅します。他人が亡くなると、それまでいた人が亡くなるという喪失感を味わいますよね。しかし自分に起こる死は、喪失感を味わうことも出来ないのです。いわば”喪失感を味わえない喪失”です(277頁)
さらには、死によって私たちの生の可能性としての将来性に思い至ることができるとしている。月並みな例ではあるが、体調を崩して入院していると、当たり前のように生きていることに価値を見出したり、元気であれば本来は何がしたいかという潜在的な価値観への気づきことがあるだろう。
目先のことや毎日に溺れてしまうのではなく、自分の命の有限性を自覚して、未来から逆算して、自分をつくっていくのです。死んでしまうという事実があるからこそ、いまを見つめ直すのです。(中略)
死があるからこそ、私たちは本来性に気づくことが出来る(296頁)
<ヤスパース>
物語の最後に少しだけ顔を出すのがヤスパースであり、あまり細かな考え方についてまでは理解できなかった。しかし、これまでに登場した哲学者たちが自分自身に焦点を起き、他者との関係性について述べていなかったのに対して、ヤスパースは他者との相互交渉に示唆を与えてくれる。
「他人については、自分の思いどおりにならないことも多いし、自分が求めている距離感と相手の求めている距離感が違うと、寂しくなったり、逆に面倒くさく思ったりすることもあるけれど、自己主義に考えるんじゃなくて、共存を前提に腹をわって自分を開示することが大切なんじゃないでしょうか。
まさに”愛しながらの闘争”です。他人を拒絶して独りよがりの考えだけに目を向けるか、誰かと真理を探究し合うか」(330頁)
<その他>
本作の最後の言葉もまた、いい。様々な哲学者とのやりとりを通じて、現実で直面する課題に対して何を考え、どのように対処するかを考え続けた結果として至ったアリサの心境の独白である。
人生の中で悲しみが何度も降りかかったとしても、それを受け入れて超えて行く。心からそう思えるようになるまでには時間がかかるかもしれないが、もう一度リピート再生したいと思えるような一生を送れるように、人生と誠実に向き合っていくためには、悲しみを悲しみのまま終わらすのではなく、乗り越えて生きていきたい。
人生の意味は、自分にしか見つけることができない。私はいつもスタート地点に立っているのだ。それはいまも、そしてこれからも。(359頁)
【第367回】『超訳 ニーチェの言葉』(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ、白取春彦訳、ディスカヴァー・トゥエンティワン、2010年)
【第308回】『ツァラトゥストラはこう言った(上)』(ニーチェ、氷上英廣訳、岩波書店、1967年)
【第309回】『ツァラトゥストラはこう言った(下)』(ニーチェ、氷上英廣訳、岩波書店、1970年)
【第891回】『誰にもわかるハイデガー』(筒井康隆、河出書房新社、2018年)
【第525回】『嘔吐』(J・P・サルトル、鈴木道彦訳、人文書院、2010年)